沖縄と川崎─ 島人(しまんちゅ)の活力と旅愁─
2002年2 月28日(木)

末吉 厚(すえよし あつし)

世阿祈夢(ヨアキム 霊名joachim、『詩集』のペンネーム)

昭和6年 沖縄県島尻郡伊是名村に生まれる
昭和19年 南洋群島マリアナ諸島テニアン島より引き揚げ、沖縄戦にまきこまれる。
昭和34年 明治大学大学院研究科文芸学専攻修士課程終了後、
  史学専攻博士課程に進み、森末義彰教授に師事(日本芸能史専攻)
  、単位取得満期退学。
昭和34年 武相学園に勤務、平成8年退職。
昭和46年 明治大学文学部兼任講師となり現在に至る(日本演劇史)。
平成12年 跡見学園女子大学国文学科非常勤講師(芸能論)兼任。

日本演劇学会、日本風俗史学会、川崎沖縄文化同好会に所属。『芸能史』(共著、「体系日本史叢書21」所収、山川出版社、平成10年)、その他共著、発表論文多数。シリーズ詩集
1、 『旅路の風』(秀英社、平成9年)

沖縄の人(島人)、沖縄の方言で「ウチナンチュ」といいますが、沖縄と川崎の関連は大正時代からとなりますが、近代から現代にいたるまで、との宿題をあたえられました。このことは、沖縄の地理と歴史をご存知で無いとなかなか理解できないことです。

 私の生れたのは、与論島の近くの伊是名村です。そこの銘苅(メカリ)家の出身です。第一荘園王の系統です。伊是名、伊平屋あたりは、特攻隊が鹿児島、上海から飛んでまいり、私は5回ほど見たのですが、伊是名の防空壕の中からのぞくと、特攻隊がまちぶせたカーチスやグラマン機の相手となり一機と無く皆、海中に落とされました。それから沖縄島、伊平屋島、伊江島があります。そこは皆包囲され上陸されています。どういうわけかこの伊是名村だけは、歴史を知ってそうなのか、京都のように取り残されたもので、夜中に2000名米軍が静かに上陸し、それだけで終りました。ちょうど13歳、14歳の時でした。また、テニアン島に1歳半の時につれていかれまして、そして昭和19年3月6日、その前後出発した引上船はみんなやられました。母親と娘がほとんど行方不明になりました。小さな子供は5歳でもほとんど生きておりました。私たちの船団は5隻で3月6日に出発し無事着きました。横須賀に着きました。私は19年4月に川崎に参りました。なつかしいです。ただし、参りましたといいましても、2日泊っただけです。おばのうちに泊りました。その時に富士紡績工場の一帯を通りまして、娘らが窓から手を振ったり、声をあげたりしているのが印象に残っております。13歳、14歳ですから。それが今日お話をするということは不思議な感じが致します。それから、テニアン島で小学校の高等科、その当時は国民学校となりますが、高等科の1年で皆動員されまして、テニアン島のハゴイ飛行場(海軍飛行場)の拡張工事に動員されまし平成14年2 月28日(木)元明治大学講師 末吉 厚た。兵舎に泊り込み、きび畑の伐採をしました。その飛行場から、後に考えますと広島、長崎に原爆を落とした飛行機が出発しております。なんとも言えない意地悪だと思いました。また神戸港から沖縄へ行きましたが、関東軍を乗せた船団が27隻、鹿児島、沖縄へ向かいました。いずれにしても昭和19年4月29日には沖縄にいました。5月になりまして伊是名へ船で渡りまして、そこで戦争が始まりました。沖縄上陸戦です。そして私は戦いはしませんでしたが、色々な戦況を見ました。そして昭和24年高校を卒業しまして。25年に引上の形で(内地への引上は、兵隊さんと一緒で半年くらいの手続きがかかりました。)26年の5月に川崎につきまして、大学、大学院まで川崎にいました。伊是名にいる時に、原爆をつんだ長崎へ投下する前に、小倉へ投下する予定のものが、雲がかかって全然見えない、そうするとこの原爆は海へ捨てようか、あるいは、他へ落とそうか悩んで、九州一帯を飛んでいる時に「こよなくはれた長崎の空」が見え、原爆を受けました。原爆を落とした飛行機がぐるぐる回っている時に、燃料が不足しましてこれでは、テニアン島に帰れない、その当時は沖縄が占領されていましたので、沖縄の伊江村に給油で着陸しております。これはあとでわかったことで、なんてバカなことをするのでしょうか。では、本題に入っていきましょう。

対外貿易の隆盛(画像を拡大する)

  「万国津梁」(バンコクシンリョウ)ですけれども、これは有名な尚泰久の王様の時代、1458年ですけれども、その時に首里城にかかげた鐘に書いてある文字です。これを「万国津梁の鐘」と言っております。「万国津梁」とは何かといいますと、「津梁」とは、かけ橋という意味です。ですから「世界のかけ橋」ということです。

 次に、沖縄とは、いったいなんだろう、どこだろうということです。これは、王朝時代、14世紀末から16世紀の時代、琉球王国の時代に、海洋国として非常に発展しました。これは不思議のことです。また、この図よりちょうど東南アジアの中心地にあります。ですから、ペリー42提督も浦賀に行く前にたちよったり、マッカサーも、ペリー提督のまねをしたといわれています。それから鑑真和尚も、沖縄に着いています。これは潮の流れ等の関係もありますが、いずれにしても、ここに立ち寄るオランダ船も多くあります。こうしてみますと、円を描くとちょうど真中になります。このようにして黒潮の流れが、サンフランシスコ、メキシコあたりから周り、横断して、フィリッピンや中国大陸にぶつかりまして、そして台湾のほうに方向転換し、沖縄を両側からあらって北上する。日本海、太平洋をあらっていく。昔は電波があるわけでも、飛行機があるわけでもない。あるのは船だけです。文化が移動するということは、人間が移動することを表す。そく文化の流れは、人間の移動である。ということを考えますと、色々考えさせられます。

 では、沖縄の人間は何処からきたのだろうかということですが、日本列島もそうですが、日本の歴史家によりますと藩ごとにみんな違うんだという人もいます。そう考えてもまちがいはないと思います。日本海側と太平洋側はルーツが違うと考えても、差し支えないと思います。沖縄の島人(シマンチュ)は何処からきたのか、ということですが、

「首里城ハンドブック」(アブドロ)より
図を拡大する
沖縄の島人(シマンチュ)はどこから来たか

世阿祈夢

(ヨアキム「詩集」末吉厚のペンネーム)

日出づる東海の波間に一六〇余の島かげを漂わせ遥かな古より 蒼天と紺青の海原にいだかれ太平洋と東支那海の黒潮に洗われし ウルマ 琉球よ汝が縁どる 東西南北の白浜に寄せる漣(さざなみ)は潮路遥かな 故郷(ふるさと)の調べを 今日も奏でつづける

ザザ ザザッ ザブーン

舟(サバニ)筏を飛び降り 渚をけって 星砂光る 白浜にかけあがるバシャバシャ 砂浜に 身を横たえる 旅人の影満天の夜空に きらめく星くず童(わらわ)は 一斉に叫んだ

短命(タンメー)半死(ハンシー)よ!自分たちの田舎の夜空にそっくりだ!

遠く潮騒の音は 風と共に 渚をわたり白浜を這い アダン葉に 戦ぎしのび泣く波涛(はとう)に漂う 地神のハミングかあの世の祖霊神の 囁きか果てしなき 哀怨(あいえん)の調べ 嫋嫋にして島人を育む 郷愁 オルティンドウーの調べ

瞼は重く いつしか 深い深い 眠りに誘われる遠く 長い長い 潮路の 旅だった四方の波風にまかせて 漂着せし旅人よ汝は いずこより来たり いずこへ

おーい、童よ さあ 起きるんだ!

目を こすりこすり 起きあがる童水平線上の彼方で微笑む真赤な太陽天は 蒼蒼喜喜 感動の叫び

短命 半死よ!自分たちの 田舎の日の出にそっくりだ!

遥かな水平線上の日神に合唱する神女(カミンチュ)のオバア祈祷 祈願 草木は静まり ひとつになる旅人拝み手 招き手 こねり手 押す手の手振り日神 祖霊神への感謝 世果報(ユガフー)の祈り

汝が先祖の生まれし 故郷は いずこなりや

アダン 蛸の木
ウルマ 琉球以前の沖縄の呼称。原義は天界を走り行く永遠の生命を運ぶ箱船。
    琉球者の魂を来世に運ぶ「葬送の船。」東海に浮く報船。鬱稜の島。
まほろば すぐれてよいところ。勝地。ここでは「ウルマ」と同義語。
タンメー たん前」男性の高齢者への敬称。「短命」とも当て字されるが
    親しみをこめた「おじいちゃん」。
ハーメー 「はんし前」、女性の高齢者への敬称。「半ハン死メイ」とも当て字されるが
    親しみをこめたお婆ちゃん」。

北方蒙古班の 流れしものか奥深き大陸シルクロードに 東天の夢を追い青い幟(のぼり)赤い幟の下で 共に精気をいやしひた走り続けしキャラバンの流しものかいや東支那海を闊歩せし 水軍和冠の流しものか対岸温州 福州 客家(はつか)の流れしものかはたまた 踊る黒潮の流れに身をまかせひたすら北上つづけし ネシア漂白民の流しものか中東遥かなバビロンから 南西天竺 シャム 安南スマトラ ジャバ マラッカ ルソン島限りなき夢を追い求めし 移住者の流しものか

ああ様々な旅路をさすらいようやくにして 辿りつきしは 麗しの琉球両手を広げ 深呼吸 胸いっぱい またいっぱいウルの薫りに酔吟す 波涛の調べ汝が故郷は 芭蕉 アダシ葉の照りかえす この島だけど風は舞い 千鳥は鳴き渡る小さき島々に様々な顔が行き交い「首里城ハンドブック」(アドプロ)より互いに声を掛け合えば

イチャリバチョウデー

ああ 常夏の風土の革袋に 四方の香りは注がれ芳醇な香りは またたく間にして 混淆融合 新しきを生み断崖波涛のしぶきの彼方から三線の音と共に カチャーシーウマンチュの歓声が湧きあがるほら聞こえて来ます 聞こえて来ます時は流れ 世は変われども新き世には 新しき旅人の 新たな旅路への調べが―アメラジアンの奏でる セレナーデが―ああ 絶えることなく 永久(とわ)に己のルーツを問い続けし 島人の運命(さだめ)

イチャリバ チョウデー 行き通えば皆兄弟姉妹。
カチャーシー 雑踊り。喜びにまかせて多勢に
    よる自由参加の踊り。
ウマンチュ 万人。

 皆様、沖縄へいかれるとわかりますが、今は27の国民がおられますが、(72の民族がごっちゃになっています)沖縄に行った人はハワイ、アルゼンチン、ブラジルあたりに行った感じですねと言っています。建物にしても看板にしても、また色々な人にぶつかります。私の伊是名村にも、おおよそ正方形になっていますが、辺ごとに人が違います。つまり、流れつくところが違うのです。それほど色々な種族がしめられています。島はみんなそうかもしれません。それでは、故郷と沖縄の「懐かしき故郷」の違いを見てください。

うた 松田しのぶ(演奏時間3分47秒)

<解説>
普久原朝喜作詞・作曲。昭和二十二年の作品。<鉄の暴風>といわれた沖縄戦で島は焦土と化し、県民四人に一人が戦死した。悲惨な出来事だった。戦後、米軍統治下の沖縄へは本土からの往来が自由にならなかった。遠く故郷を離れて肉親の安否を気遣い、故郷の山河を思う県人の心情をせつせつと歌ったのがこの民謡である。普久原は当時、大坂に住んでいた。

 我々が唱歌でならった「故郷」はたての形、沖縄の「懐かしき故郷」は横のつながりです。なぜこの違いを出すかと言うと、「故郷」は「兄弟達」を神に対しての「兄弟」、ある程度縦の影響が出ています。しかしながら沖縄の「兄弟」は「イチャリバ チョウデー」であえばみんな兄弟です。つまり横です。縦と横の違い、沖縄の人はみんな横の流れです。横のつながりは非常に大事だと言うことです。ではどうして「兄弟」がでて「シスター(姉妹)」がでないのか、沖縄では、はっきりしております。「姉妹」は沖縄では「ウナリ」といい、「ウナリ」は「神の霊を持っている人」といい、つまり「子供を生む力をもっている人、霊威をもっている神のつかえ」神のつかえは、男兄弟を守ると言うことです。いずれにしてもあえば兄弟ということが、島国の性質から集まってきた人間の成り立ちから考えるとそうであろうということが容易に考えられます。これが「ユイマール(助け合い)」の精神です。とにかく集まれば「みんな兄弟です。」血の流れをこえたものですね。この考えは非常に大事だと思います。それが戦後沖縄の風景にもあらわれております。また長生きするということも、そのような感情の雰囲気が助けてくださるのではないでしょうか。

 次は歴史ですが、「沖縄の古称の変遷」ですが、同じ琉球ですが、「隋書」「宋史」「元史」を見ても字が違っています。

 では「ウルマ」とはいったいなんでしょうか。中東までまいります。「ウル」という土地までまいります。キリスト教の聖書の発生地までたどりつきますので、省略させて頂きますが、「ウルマ」とは「葬送の船」です。つまり、死んだ人を乗せてあの世に運ぶその船で、それが「ウライ」です。中国大陸から沖縄をみなすと、昔は台湾半島、琉球半島(沖縄半島)といったのですが、今でもウルム地あたりの青年は琉球半島(沖縄半島)に行くにはどうしたらいいのでしょうかといっています。ですから中国大陸から見ますと、日本海側は縮まっていて、ですから「ホウライの島(あの世の島)」といいます。又「ウルマ」といいます。つまり、沖縄は「あの世」ですね。沖縄は「あの世」と「この世」が一緒にあります。

 次は川崎の「ウチナンチュ」です。沖縄と川崎の結びつきは大正時代にさかのぼります。富士紡績川崎工場にたくさんの人が入ってきています。とにかく紡績工場では、大阪についで、神奈川県は2番目です。男性は1013人です。女性は1832人が入ってきています。大阪は男性が4700人、女性が3830人です。いずれにしても、川崎と沖縄は切っても離せないのです。戦後は復興のために、どんどん沖縄からやってきました。戦前、戦後数多くの人がきました。これはずいぶん川崎の土地が受け入れたということです。紡績関係で沖縄に帰らず、残った人たちが沖縄の芸能を受け継ぎました。これは川崎の歴史の中にうたっています。このようにして川崎には沖縄芸能が残りました。又、川崎では沖縄を救えということが非常に熱心です。

 「大正12年9月1日、あの歴史的な関東大震災の直後のこと。沖縄県では、この大きな震災の後始末や、都市の復興の仕事の為、多くの若者たちに、関東地方への出稼ぎのチャンスを与えたのです。」(末吉美代)

 沖縄自身が、積極的でもあり、関東のほうでも積極的であった。このような時代を経て、戦前戦後も「受けいれる」、川崎にはつまり「横の流れ」があります。多摩川を例にとりますと、大都市は川を境に発展しています。川崎はどうしてもっと川を利用しないのでしょうか。しかしながら、川に沿って縦長、そして海に開いている。この海に開いているのが特色です。これをもっと横に広げる。この下地は川崎にはあります。川崎の復興は縦でなく横です。

 川崎は復帰運動にも力を入れ、琉球舞踊を伝えようとしました。「おどり」は横のつながりです。沖縄の人は潮の流れでどんどんどんどん北上し、その地をうけていさぎよく積極的に外地に向かう。それが積極的であればあるほど「郷愁」を感じます。沖縄の人達にはその唄、おどりが1つのなぐさめになります。そして文化講座を開催していきました。

 このようにして沖縄はほんとうに川崎に迎えられている点と、沖縄の人達は川崎だから行くんだという気持ちが多分にあると思います。ご静聴有難うございました。