幕末、外国人の見た大師見聞記
2001年2 月21日(木)

竹内 清(たけうち きよし)

早稲田大学卒。川崎区小田在住。郷土史研究家昭和五十年、低学力の生徒さんを対象にした補習塾を開設。その間に、谷川健一氏の創設した日本地名研究所の地名調査員となり、川崎の微細地名調査に携わる。平成五年より川崎区文化協会理事。文化評論雑誌『川崎評論』の編集委員。平成元年よりフリーペーパー「TODAY」に『町名を歩く』を三年に渡り連載、著書『川崎の町名』『川崎区の史話』『川崎地名百人一首』『ニヶ領用水四百年』『教育をどうする』(岩波書店刊)──── 共に共著

本日、私は大師をテーマに取り上げましたが、川崎の地域史研究というのは、ある意味では行き詰まっていると思います。何故かと言うと、「文献資料」のみで川崎の過去像を探っていくと当時(幕末〜)の人達の生活像が誤って伝わってしまうケースもあるように感じているからです。そこで、私は少し違った面から、すなわち外国人から見た日本の人間像や生活像を探ることによって、より正確な情報を提供できるのではないかと考えました。具体的には、まだ翻訳されていないものまで含め「外国文献・見聞記」などを調べて行く事によってアプローチしています。

当時、外国人は遊歩区域を40キロメートルに定められており、多摩川が境になっていたこともあり、かなり多くの外国人が「大師」を訪れ、参拝し、諸処の手紙や文献を残しています。

《フランス青年貴族の川崎大師参詣》

フランス国王ルイ・フィリップの孫パンティエーヴル公爵の世界一周旅行に同行した青年伯爵リュヴィック・ボーヴォワールは帰国後、「北京・江戸・サンフランシスコ」という見聞記を発表しましたが、その中の訪日記が「ジャポン1867年」と題して刊行されました。ボーヴォワールは1866−67年にかけての世界一周旅行の途中に、35日間横浜に滞在し、その時に神奈川から馬の遠乗りで川崎宿により川崎大師に参詣しています。慶応3(1867)年4月23日のことです。

川崎宿で食事を取ると茶屋の娘の案内で大師河原平間寺に向かったようで、茶屋の娘は大師道を通ったものと思われます。「二人は互いに腕を組んでふざけたり笑ったり、小さな下駄をカタコト鳴らし、紺色の枝葉模様の半纏と赤い腰巻を小麦と矢車菊の間にちらつかせながら、その漆黒の美しい髪を、技巧をこらして高々と結いあげた髪が爽やかそよ風に乱れても、一向に気にしない。」幕末の大師道とは思えない、時代を感じさせない明るい光景です。その陽気な川崎宿の茶屋の娘に純朴な農村の小娘の叫び声がかかります。「魚を追う小娘たちは天使のように丸裸で、水田の中でバチャバチャやっているが、われわれに向かって陽気にオハヨオ、と可愛く叫び、背中にはじぶんたちと大きさのあまりちがわない弟をおぶっている。」21歳の青年貴族ボーヴォワールはここ川崎でも、来日以来彼の心を捉えた「にこやかで小意気、陽気で桜色」の日本女性に引かれ、自然の中で生きる喜びに輝く日本の子供を賞賛しています。水田に遊ぶ小娘は川崎南部のどの村の子供だったのか、またボーヴォワールはどの村の水田を目にしたのでしょうか。失われた川崎区の農村風景がここにもあります。

平間寺についたボーヴォワールは「彫刻のある木材でできた壮麗な建造物」に目を引かれます。正面階段上に大太鼓があるのに気付くが、これは鈴のことだと思います。巡礼がこの鈴を鳴らす姿を見るうちに、「長さ6メートル幅1メートルの溝」が祭壇の前に掘ってあるのにも気付きます。お賽銭箱のことですが、溝の賽銭箱とは面白い表現です。ボーヴォワールはこの後、自分近くに二刀を帯びた武士を見かけ、自分が異宗の世界に足を踏み入れた危険を感じ、この寺を去っています。

《川崎大師に見る異国人への好奇心》

幕末に来日した外(異)国人への、日本人の好奇心・関心は彼らの目に異常なものとして映ったことでしょう。時には「男女の入浴者が入り乱れて20軒ばかりの公衆の小屋から、われわれが通り過ぎるのを見物する為に飛び出してきた」光景にも出くわしています。(「ホジソン長崎函館滞在記」)英国の初代函館総領事のホジソンが1859年に来日後、江戸に入る時の体験です。

川崎でも異国人への強い好奇心は見られたようです。1858年、英修好通商条約締結の為に来日したエルギン伯爵はフリゲート艦フュ−リアス号に乗って来日しましたが、そのときの艦長がシュラード・オズボーンです。彼はある日、馬の遠乗りで川崎大師を訪れましたが、そこで見た最初のものは「驚きにうたれた厖大な日本人群集」でした。本堂の中を見たあとで外へ出てみると、「寺の通廊も、回り廊下も、庭を見下ろす塀も屋根も、真黒になるほど男女、子供たちが群がっていた。」この群衆の中をオズボーンの一行は警史の作った道を通り、外へ出れたのだが、彼の一行を追う群集は山門を閉じられ、境内に閉じこめられた、とのことです。オズボーンはこの時、群集の「憤慨のどよめきと叫び声、笑い声」を聞いたそうです。

評論家の渡辺京二氏は近代文明論「逝きし世の面影」の中で、この川崎大師境内に閉じ込められた群集の心理を「彼らは自分たちが憤慨すべき状況におかれていることを笑いの対象とすることのできる、自己客観視にともなう笑い」だと述べています。これは外国人から無気味と見られた照れ笑いではなく、苦々しさや怒りを笑いでごまかす苦笑いだと思います。フランス人画家フェルックス・レガメは「日本素描旅行」の中で、日本人にとって「生活のあらゆる場で、それがどんなに耐え難く悲しい状況であってもほほえみは必要なものであった。」と述べていますが、近世日本の庶民が持ち続けた微笑みは、礼儀の基本であると共にその笑みでどんな困難も乗り越えていこうとした強さの現われではなかったでしょうか。苦笑いと微笑みは日本の庶民のユーモアのセンス、苦しさに負けぬたくましさだったと思います。幕末の庶民はけして愚民ではありませんでした。オズボーンは、川崎大師境内の群集の叫び、笑いから、日本文化・国民性を確実に捉えそれを後世に書き残しています。

《アメリカ鉱山技師の見た幕末の川崎大師》

文久2(1862)年江戸幕府の要請で来日したラファエル・パンベリーという鉱山技師がいます。彼は、1837年ニューヨークに生まれ、鉱山学校を卒業と同時に来日し、文久2年5月から8月にかけ、北海道の鉱脈調査にもかかわり、帰国後、彼のまとめた体験記はその一部が「パンベリー日本踏査紀行」として翻訳されました。

幕末から明治初期にかけ、多くの外国人が川崎大師を訪れ、フォーチュン・ヒュースケン他十数人の外国人が大師見聞記を残していますが、その中でもこのパンベリーの文は観察が細かく鋭いものです。年代は不祥ですが、3月初旬にパンベリーは友人のベンソンと共に神奈川から小船に乗り、大師近くの河岸につくとそこから徒歩で訪れました。境内に入ると「晴れ着で着飾った大勢の見物客」に囲まれました。広大な屋根とそれを支える巨大な角材、「建物の内側に充ちる陰翳」は建物全体に印象深い雰囲気を与えていたようです。パンベリーだけでなく、他の外国人も必ず記したものに柱や梁の木工部の「内側とも華やかな彫刻」があります。門口上部には「銅羅を2個組み合わせたような形の奇妙な鈴」があり「分厚い絹の網」が垂れ下がっています。パンベリーは、身分の高い役人がこの鈴を鳴らすと「鈴は澄んでいるが、奇妙な音を立て、反響音が寺院の薄暗い内部に消える。」と、西欧の教会には無い鈴の音に引かれています。香炉から漂う芳香の中で僧侶が祭儀を執行している。彼は竹を詰めた筒を手にした占い師にも興味を持つ。老人が筒を振ると番号のついた竹が出てきて番号のついた引き出しから紙片を取り出す。約140年前の占い(おみくじ)は現在と変わりません。変わったものは紙片に書かれた運勢の記述のことと思われます。紙片には「雲と水と桜の木の下に座る老人」の話が書かれていたが、印刷が悪く文の意味も理解できなかったようです。パンベリーは川崎大師は「畳の床、磨き上げられた広縁、寺院の階段(きざはし)、敷石された内庭のなだらかな石段、中央部にある塵ひとつない銅製のりゅうがん(仏像を納める龍模様の厨子)」など全てが清楚な佇まいであり、その中に少女たちの絹の着物と溌剌とした面差し、夫婦たちの装いはとけこんでいると、高い評価を与えています。

また、太宰治や非常に有名な日本人も大師参りをしていたことは事実であり、川崎大師はただ単に厄除け大師であっただけではなく、日本の仏教文化や彫刻文化にも影響する場所であったことを私たち川崎人はもっと知る必要があるのではないかと思います。ご静聴有難うございました。