戦国に開く辻が花小袖
2001年10月24日(木)

古江 亮仁(ふるえ りょうにん)
大正四年七月三日生れ。
大正大学文学部史学課卒業。
昭和17年大正大学講師、以後大正大学助教授・教授を歴任、
昭和26年川崎市教育委員会社会教育課嘱託。
同42年初代日本民家園(川崎市立)園長。
昭和51年「川崎今昔会」を結成。
平成5年度川崎市文化賞受賞。
平成13年逝去

主な著書・論文
昭和29年「奈良時代に於ける山寺の研究」大正大学研究紀要第39輯
昭和41年「隅田八幡宮所蔵画像鏡銘文私考」「日本歴史考古学論叢」吉川弘文館
昭和42年「川崎市史」(古代の部)川崎市役所
昭和56年「天台法華宗付法縁起逸文考」伝教大師研究別巻
昭和57年「みんなのみんかえん」邯鄲アートサービス平成元年「慶州瑞鳳塚出土杆の銘文についての二・三の問題」朝鮮学報第130輯
平成2年「最近発見の古代権衛資料について」鎌倉女子大学「緑苑」24号
平成6年「倭鏡法量私考」鎌倉女子大学紀要第一号平成8年「日本民家園物語」多摩川新聞社「川崎大師興隆史話」川崎大師遍照叢書刊行会


川崎大師の天台宗明長寺に伝わりますところの【辻が花の小袖】についてお話申し上げます。【辻が花小袖】というのは実のところ30年位前迄では専門の方々にもほとんど知られていないものでした。日本で【辻が花】とういうものを知っているのはせいぜい十数人、戦前は7、8名というくらいに限られておりました。全く知られていなかったのです。川崎市が市文化財審議会という機関を文部省の趣旨に沿って作り、一流の人を呼んだほうが良いということで、東大名誉教授で美術史の大御所であるF先生をお呼びしました。それから当時、週刊朝日等に連載をもっていて有名な方で、文学博士であり日本史学会会長、国学院大学や大正大学の教授をしておりましたT先生もお呼びしました。T先生は家康や秀吉が専門でして、秀吉の書簡については『太閤書簡集』という本を出しておられますが、ご本人は秀吉の次に秀吉の手紙を見たのは自分だとおっしゃるくらいです。その位安土桃山文化に精通している方なのです。ところが大師河原の明長寺が所蔵している【辻が花の小袖】を両先生にお見せしたところ、F先生は何ともおっしゃらない。T先生は「これは家康のものじゃない。家康はこんな派手な格好はしていない」とおっしゃられまして、「これは【辻が花小袖】である。」なんて事は全く、ちっともおっしゃいませんでした。

ところが私は子供の時からこの【辻が花小袖】を目にしておりまして、「これは大変なものだ。」という予感をもっておりまして、何と言うか古物の方に対する予感というものが私持っているのです。

豊臣秀吉が小田原の陣の時に、伊達正宗の家来で馬を何十匹か連れて陣中まで運んできた者がおりまして、「よく来てくれた。」と言って褒美に自分の着物【辻が花の小袖】を与えたことがありました。黄色い大柄の文様が付いたすばらしい物です。上と下が染めてあって、胴が白く抜いてあります。これを見て私は「明長寺の物もこれにそっくりだ。」と思い、だから「これは大変な物だと。」常々思っていた、ということを言ったのですけれども、誰もとりあわなかったのです。そのうちに川崎市でも「小袖」という単なる題目で川崎市の文化財にしたのですが、「小袖」というだけで家康から拝領したものと指定されちゃったのではどうしようもないわけです。で、それから文化庁へ持って行って見せました。文化庁で専門の方に紹介されましたが、その方にインクなんか置いてある事務所で「開けて御覧なさい」と言われたので包んできた風呂敷を開けましたら、技官がフッとして、びっくりして、飛び上がるほどびっくりして、「そのままにして下さい」と言いました。それから庁内の方々の関係者に電話をして、委員長室、その時分はT先生という中央大学の名誉教授で文部大臣にもなった方が委員長で、委員長室を使っていたのですが毎日来ているわけではないものですから空いていました。そこを空けてくれという交渉をしてその部屋を空けまして、それから関係の色々分かる方々を2、3人呼んで、徐々に風呂敷を開けて「わーっ!」と言って皆さん驚いて、「東京の付近に今迄こんなものがあろうとは思わなかった」と言って驚いていました。

そういう歴史的価値がある【辻が花小袖】がどうして明長寺にあるかというとことをこれからお話致します。越後の大名、上杉謙信の養子、上杉景勝に荻田主馬という家来がおりました。荻田主馬の本名は孫十郎長繁といいます。長繁というのは、上杉謙信は本来、上杉姓ではなくて長尾姓で、11その長の一字を貰い長繁としたようです。主馬というのは昔から朝廷の馬を取り締まる、馬方の大将みたいな役の名ですが、その役職名を付け、代々主馬、主馬と言っていたのですが、本当の名前はこのように名乗りは長繁です。その孫に正幸というのがおり、後に又出てまいります。この荻田長繁が上杉家家督相続抗争が起きた折に大変な活躍をいたしました。

上杉謙信には細君がいませんでしたから子供がいません。それで自分の姉の子供を養子に貰いました、これが上杉景勝です。それでそのまま家督相続されていけば事件は起こらなかったのですが、戦国時代においては、政略結婚とか、政略の養子縁組というものが色々とありましたものですから、そのことで上杉家においても家督相続騒動がおきます。北条、小田原の後北条ですが、北条早雲以来4代目あたりに氏政というのが出まして、その親は氏康ですが、こういう時代あたりです。氏康の子供の氏政、弟の三郎、他にもまだたくさんおりますけれども、焦点はこの二人であります。この頃は群雄割拠しており危ない時代でした。当時、関東地方の4割位は、つまり半分近くはこの後北条氏の勢力下に置かれていました。上杉家としてはそういう北条家と縁戚関係を結んでおいた方が良いだろうという事で、上杉謙信は三郎(後、景虎に改名)という北条氏康の息子、氏政の弟を養子に貰いました。ところが三郎には三郎の家来が上杉家へ同道して参りますから、上杉景勝との間で、謙信の後継は俺の方だ、いやこちらだ、ということになって、上杉家家督相続抗争が両者の間で持ちあがってしまいました。

上杉景虎の方は北条家から養子に来たので、自分達の力だけでは弱いものですから、兄の北条氏政に援助を頼みます。が、兄は兄で自分の周囲の問題だけで当時手一杯で、弟の助けには行けない、ということでありました。それならばということで、北条一門の中に厩橋(現在の群馬県前橋市)の城主、北条輔広という者がおり、この北条輔広が子供の景広を連れて助勢いたしました。

この北条景広、丹後守というのですが、北条丹後の別称で、剛の者として世間に名前が広く響いておりました。ただ強いばかりではなく、豪勇というか、猛勇というか、どんな状況でも敵の中にもぐりこんで行って、やっつけてしまうという人物で、皆から極めて恐れられておりました。北条丹後が味方につけば大丈夫、ということだったようです。ところが上杉家の本拠の春日三条(新潟県上越市の高田付近)において、荻田主馬が槍をもって待ち伏せし、北条丹後を突き刺してしまいました。猛烈に突き刺されたもので、さすがの北条丹後も丹後刺し(=団子差し!?)になり、落命してしまいました。これによって荻田主馬の名前がパッと世間に広がりました。テレビやラジオがなくても、昔は強い奴は強いや、と急に評判になってしまいます。

ところで上杉景虎というのは社交的に上手だったので、足利将軍なんぞにも取り入っており、足利義輝将軍から「輝」の一字を貰って輝虎と改名しましたが、困った事には、養父である上杉謙信も幼名は輝虎で、同じ名前なのですが、それはそれで名誉な事だからということですし、養父の場合は幼名でもあり、その頃は謙信、謙信と普通は呼ばれているからということで、輝虎と改名しました。この輝虎は関東一円を支配するというような意味で関東管領にも就いたのですが、先に申し上げたとおり、荻田主馬に北条丹後がやられてしまってから景虎方は皆浮き足立ってしまい、脱落していく者もいたようで、景勝と景虎の抗争は景虎の敗退という結果になり、最後に景虎は自害してしまいました。
景勝の方は江戸時代の始めまで生き延び、一時は50万石を擁したりしておりましたが、豊臣方についた為に25万石に減らされたりしました。が、ともかく、厳然と上杉家は現在にいたるまで続いております。上杉鷹山侯というような偉人も輩出しております。

さて、その北条丹後を仕留めた荻田孫十郎主馬ですが、その手柄を立てた後どうしたかというと、そんな家督相続抗争に勝利し、景気がよくなった景勝に従っているのが面白くなくなってしまい、自ら景勝の下を辞去してしまいました。その後、豊臣秀吉の甥っ子に当たる豊臣秀次から声をかけられまして、主馬は秀次に士官してしまいました。ところが、どうもこの豊臣秀次という人は、奇矯なことをするし、変な癖があったようでした。大事な物を運ぶ時に「主馬が落とした。」とか言い掛かりをつけ、その事を酷く責めたりしました。そういうような事が重なりまして、「こんな主人に就くべきではない」、という結論を主馬は出し、この秀次の下も辞去してしまいました。しかしながらこの件については、辞めて良かった、という結果につながります。秀次に関しては、この後間もなく豊臣秀吉に実子(後の秀頼)が生まれましたので、秀次の存在は豊臣家の家督相続問題からすると邪魔になってしまいました。秀吉は秀次を関白職にまで就かせましたが、高野山へ追い払い、最後には切腹までさせてしまいましたし、秀次の一族、正室や、側室や、仕えていた女中さんまで、30余名を京都三条河原で皆殺しにしてしまいました。というのは、そういう秀次の周囲にいた女性のお腹に子供ができていたりすると、将来、秀次の落胤ということになり、ご落胤騒動などという面倒なことに繋がるというので、皆殺しにしてしまったようです。ですから荻田主馬は秀次のところを事前に辞去しておいて良かったわけです。
  荻田主馬はその次に徳川秀康という人に仕官しました。秀康は家康の次男、越前の国主で、有能の士を集めておりましてこれに応じたわけです。慶長5年の関ヶ原の戦いの頃には凡そ1万石ほど荻田主馬は拝領しており、慶長12年に秀康が死んだ後は、秀康の子供の忠直に仕えました。慶長18年に大坂冬の陣がおこり、慶長19年には大坂夏の陣がおきました。この2回ともえらい戦争であったわけですから、忠直の家来であった荻田主馬は戦争のベテランみたいな武者ですから、あっちこっちの修羅場を掻い潜り、うまく戦ったようです。主馬は戦争の本当の意味でのベテランですから大坂城に入った時も、バーっと要所、要所に火を点けて歩いたようです。放火犯の親玉みたいなものです。

 徳川忠直の部下の中には真田幸村を討ち取ったの者もいました。真田幸村という人は大変な勇敢というか、慶長5年の関が原の戦いの時などは何回も徳川家康のすぐ側まで切りこんで行きました。実話でありまして、講談話ばかりではなくて、本当に歴史上あったことで、家康は幸村から逃げに逃げたようです。ですから三河地方の子供の童謡には「昔、権現様負けるが勝ちよ」という言い伝えがありまして、子供は周りの子達からいじめられたりすると、さっと逃げて行っちゃって、それで向こうの方に行って囃して「昔、権現様負けるが勝ちよ!」と言います。つまり徳川家康侯は幸村には負けたけれど、戦そのものには勝ったのだ、と、こういう歌があるくらいに逃げたようです。逃げ上手だったようです。

このように徳川忠直は、その家来達が3740もの敵の首を挙げるなど大変な功績をあげました。ですから東軍の功績の大半はこの松平忠直とその旗下の功績です。これがもし忠直無かりせば、いや、早くから戦争のベテランやら集め、養成していた先代の秀康無かりせば、その後の徳川幕府は成立しておらず、豊臣の世だったかもしれません。そういう事情から家康は大いに喜びまして、元和元年(慶長19年はすぐに元和と名を改めました)の5月12日に二条城のあの大広間において功績のあった家来を各々呼びまして、「お前はどうだった」と誉めたようです。主馬もこの功績から加増され計二万五千石を給されまして、更に家康より、茶壷、杯、小袖(明長寺の【辻が花の小袖】)が下賜されました。

忠直には「少将の功績、少々ならず」などと言ったかどうか、洒落が通じたかどうか知りませんが、諸侯が集まってくれて、よく戦ってくれて、本当によかったと褒美に茶壷をはじめと13したものを与えました。茶壷というのは千利休がいい加減というか、そんなことは無いですが、そういった茶人連中の目利きによって、茶壷がものすごく高い物になっていました。それをご褒美に与えたわけです。ところがこの徳川忠直という家康の孫は「面白くない!」と言ったようです。というのは、系図にありますように自分の父親の弟であるところの叔父にあたる、義直、頼宣、頼房、は夫々、尾張、紀伊、水戸で徳川姓を名乗って、徳川御三家となっているわけです。

ところが忠直は松平姓です。徳川家の家来でも功績のあった者には松平姓を付与することもあったわけですから、「面白くない!面白くない!面白くない!」と常々言っているうちに、行状が乱れてまいりまして、色々乱行沙汰をおこしてしまいます。《忠直卿行状記》という菊池寛の小説があるくらいです。岩波文庫にも入っています。忠直はしまいには家来の奥さん、「噂によるとお前の細君はなかなかの別嬪ではないか、こっちへよこせ」とか言いはじめて、独身の女ならともかくとして、家来としてもまさか自分の細君をやるわけにはいかないというようなことになってしまいました。昔の封建領主というのは大変我儘なもので、このように、人妻だろうが無理に取り上げるようなこともしたようです。それから忠直は自分の家来に対しても「お前達に功績があって、俺にはこういうものが褒美で下賜された。」と言い、拝領の茶壷を割って、家来達に分けたりするというような、何か狂気の所業みたいな事もしたようです。そのことは忠直の心中に不平不満が溜まってそういう狂気を帯びた行動をしたのだと思いますが・・・。ともかくそんな松平忠直はただの一石一城の主どころではなく、大国の国主でしたから、幕府としてもそのままにしておくわけにはいかない、ということになり、豊後の国(今の大分県)への蟄居を申し渡され、流されてしまいました。流されたと言っても、5千俵米が来たので、どうにかなったようです。その証拠に、流すと言ったら島流しですけれども、この場合は正式には蟄居ですが、豊後の藩主も権現様の孫を粗相には出来ないので、ちゃんと女性が傅けたりしたので、子供が生まれました。その子に後に永見大蔵という名前が付きました。この人物が実は後々活躍します。

  忠直の子供は権現様の血を引く、というので、忠直の長子、松平光長は越後高田二十五万石に国替えとなりました。それまでは五十万石ほど拝領していたのですが致し方ありません。筆頭家老であった主馬も糸魚川の城代になり、1万4千石を給されました。それでそのまま平穏になればよかったのですが、この光長に子供がおらず、後継者問題が主馬の孫の正幸の代の時に起きました。またまた所謂お家騒動で、越後騒動と言われるものが起きました。事件は延宝9年に五代将軍綱吉の直裁が江戸城で行われました。喧嘩両成敗ということで、松平光長は改易となりました。改易というのは領地を取り上げたり、家屋敷を取り上げるので、切腹より一段軽いという程度のもので、実際には非常に重いものです。その家を潰したわけです。それから「逆意方」という一派の首領の小栗美作・掃部という父子が切腹を仰せ付けられ、「お為方」と言われた、一生懸命にやったというので「お為方」と言うのでしょうが、主馬の孫の荻田正幸と、忠直の子で豊後で生まれた永見大蔵は八丈島へ流されました。八丈島というところには年に一回しか幕府の米を運んだりする正式な船は行かないところです。八丈島からは大変黄色い、黄八丈という織物を運んできました。今、八丈島へは羽田から飛行機で1時間弱で行けますが、昔、八丈島へ行くには何晩も海の上で夜を明かして行くのですから大変でした。木の葉のような小さい船で行ったのですから。荻田正幸の奥方は忠僕や馬の口取り、早く言えば馬丁ですね、そういう者の故郷が大師河原だったもので、その世話で大師河原に仮寓することになりました。

当時の大師河原っていうのはとってもいい所ですよ。少し蚊がいたりなんかしますけれど、魚はあるし、食べ物はたくさんあるし、果物も豊富です。「是非、私の方へおいでになって頂きたい。奥方様にお越し願いたい。」って言い、連れて来たようです。正幸の子、民部と久米之助は他藩に預けの身となっていましたが、後、許され、母の居る大師河原に来て合流しました。そしてこの久米之助の孫にあたる幸之助は大師河原の豪農で名主の池上幸豊の食客となりました。

ところが池上家が困ったことには幸之助は【辻が花の小袖】を持っているのです。徳川家康から貰った、権現様から貰った、二条城で貰った【辻が花の小袖】を。

このことについて、はじめ「大日本資料」を調べましたら出ていませんでした。そこで、尾張徳川の当主が内閣文庫で調べましたら、長繁の軍中状みたいのが出てきまして、それに家康侯から貰ったという事になっておりました。そういう権現様の着物を、名主とは言ったって百姓に毛が生えたような者の所では恐れ多くて置けないから、ということになりました。しかし池上家はその時分、池上本門寺と喧嘩しており、明治になる迄、絶縁しておりました。池上本門寺を建立したのはこの池上家で、日蓮上人のパトロンだったわけですが。日蓮上人が常陸へ行く途中、甲斐の国の身延山からやって来て、いつも途中でパトロンである池上家へ泊めてもらっていた。そうしたところ草臥れているうちにどっと容態が悪くなってお亡くなりになってしまいました。池上家の当主も間もなく亡くなりまして、池上家の子供と日蓮上人の弟子の偉いのとが一緒になって日蓮上人の木像を作りまして、日蓮上人のお骨を入れてあります。今の本門寺の本尊はそれです。

そんなわけで池上本門寺ではなく当時、池上家が信徒総代を勤めていた大師河原の明長寺へ託したわけです。池上家は明長寺の信徒総代だったのです。檀家総代ではなくて、お墓はもっていないので、明治の中頃迄、池上家は信徒総代でした。そんなわけで家康下賜の【辻が花の小袖】が大師河原の明長寺に伝わってきたわけですが、その後、いろいろな事件が起こりまして、例えば、徳川将軍が真言宗智山派大本山・川崎大師平間寺にお参りに来た折、特に何も見せるものも無いということで、明長寺から【辻が花の小袖】を借り出したことがあったようです。

【辻が花の小袖】の由来の方はそこまでにして、《辻が花》とは何か、ということについてお話します。《辻が花》という名前の由来はよく分からないのです。一つ有力な説としては、〔辻〕というのは「つむじ」ということの短くしたもので「つじつじ」と、「お前、頭につじが2つもあるじゃないか」とか言う時につじと言うので、絞り染めの括り染めの時にちょうどその糸をぱっと取るとちょうどつむじみたいに見えますから、それでそう言うようになったのではないか、という説がかなり有力です。それから〔花〕についてですが、昔から赤いものを花といいます。花は大概赤いものですから。近頃では青い花だの、黄色い花だの、中には黒い花というのもありますけれど、赤いのが主です。それで《辻が花》というのは赤い染物、きれいな染物ということから由来したらしいのです。それが庶民の間では室町時代に盛んに行われまして、段々、段々広まっていくのです。あんまりきれいだと、「なかなか美しいもんじゃのう!」ということで、ことに娘さんがきれいなものを着ていたりする栄えるので、それが流行るようになってきました。

  上杉謙信が着た陣羽織に《辻が花》があって、上杉神社に残っていますが、重要文化財になっています。それから秀吉の記録を見ると明の使いが10数名来た時に、日本の誇りにする物ということで、明の使いに【辻が花の小袖】を10枚ずつ渡したと記録に書いてあります。今残っていますのは、小袖としては10枚程度です。そのうち半分は尾張徳川家にあります。水戸徳川家には小袖はなくて陣羽織がありますが、これは1枚しかないです。紀伊徳川家はちょっと没落したというか、所蔵品が分散してまして、明治15時代にはもう無くなってしまっています。
名古屋の徳川美術館という立派な美術館があって、そこに保存されています。あと民間からぽつぽつと出てくるのですが、その一つが明長寺のものです。明長寺所蔵のものは、上の方が紫で、下も紫で中が白く胴抜きしてあります。これは正式のセレモニーの時に着ていかれる着物です。それは豊臣秀吉の所蔵品にもありましたが、武家の正式の着物です。そんな立派な【辻が花の小袖】ですが、ついに朝廷を中心とした公家社会へは受け入れられませんでした。不思議な話です。

  将軍や武家の最高クラスには受け入れられたのですが、やはり庶民の間から広く伝わり、武家に広まっていったものです。ではこの【辻が花の小袖】がどうして無くなってしまったかというと、着物だから持っている人は着てしまい、古び、傷んで、無くなってしまったようです。ところが徳川様から下賜された物は家康を権現様と崇める位の信仰に似たものがありますので、他の物もそうですけれども、徳川家康から下賜されたものは大事にされたのです。

小袖を始めとした着物が美術品として大事であったわけではなく、権現様が着たお肌着、つまりお肌に付けたものであるということに価値があり、大切にされてきたわけです。それで永く保存されてきて助かったわけです。そんなわけで、明長寺に伝わる【辻が花の小袖】の一件はこれをもって終わらせていただきたいと思います。