新田四天王と川崎
2001年9月27日(木)

竹内  清(たけうち きよし)
早稲田大学卒。川崎区小田在住。郷土史研究家昭和五十年、低学力の生徒さんを対象にした補習塾を開設。その間に、谷川健一氏の創設した日本地名研究所の地名調査員となり、川崎の微細地名調査に携わる。平成五年より川崎区文化協会理事。文化評論雑誌『川崎評論』の編集委員。平成元年よりフリーペーパー「TODAY」に『町名を歩く』を三年に渡り連載、著書『川崎の町名』『川崎区の史話』『川崎地名百人一首』『ニヶ領用水四百年』『教育をどうする』(岩波書店刊)──── 共に共著



ご紹介頂きました川崎区文化協会の竹内です。学習塾経営の傍ら、川崎市の歴史や民俗問題の研究・執筆をしている者です。時間が30分しかありませんので、要点のみを整理して、本日の「新田四天王と川崎」についてお話します。今から10年前の平成3年にNHKが大河ドラマの「太平記」を1年に渡り放映しました。その年の5月に駅前のさいか屋で、川崎臨港病院の渡辺嘉造伊先生がお持ちの篠塚伊賀守の史料の展示会を開きました。渡辺先生は、新田義貞の旗本新田四天王の一人篠塚伊賀守の末裔と言われているお方です。この展示会がきっかけとなって川崎区内にも篠塚伊賀守以外の新田四天王の末裔と5名乗る人達がいることを渡辺先生は知り、稲毛神社の市川緋佐麿氏の呼びかけで渡田新田神社で、「新田四天王と川崎」というテーマでシンポジウムが開かれました。新築の神社の参集殿に多くの市民が集まり、それなりの関心を集めました。


川崎区渡田の新田神社は意外にも、近世以降の多くの文献史料に出て参ります。近世では、『江戸名所図会』『武蔵国風土記稿』『調布日記』『武江年表』、近代では作家の田山花袋が現地を訪れまして、『東京近郊一日の行楽』という本の中で紹介しています。明治時代の文人依田学海は、佐倉藩士から文部省の修史局編集官・少書記官などを務めて、退官後は自ら築いた政治家との人脈をもとに、近代演劇の改良・評論運動をした人物ですが、この学海数十年に渡り日記を書き残し、それが現在岩波書店から『学海日録』として刊行されていますが、この日記は、日記文学の横綱とも言われる永井荷風『断腸亭日乗』を超える史料価値を持つ日記と言われているものです。この中にも河崎新田神社が出ています。学海が江戸に出て宕陰舎とういんしゃと呼ばれる私塾に通っていた安政3(1856)年5月17日の日記です。一部に過ちもあるようですが、私も本当に驚きました。これほどの近代の一級史料の中に河崎の新田神社が出てくるとは。何が原因なのかを考えてみますと、1856年という年は、2年前の日米和親条約以降攘夷論の高まっていた年です。千葉佐倉藩は堀田氏を藩主とする譜代の藩です。攘夷論は藩内に強かったでしょうし、学海もその影響を受けていたと思われます。幕末楠木正成や新田義貞は南朝の忠臣として勤王派や攘夷派の武士から高い評価を受けていました。学海もこうした南朝の忠臣を慕う気持ちで友人と共に新田神社を訪れたものと思われますが、幕末南朝方の史跡を訪れるという風習は川崎だけでなく、日本全国で行なわれていたことと思います。川崎区渡田の新田神社は新田義貞の旗本とも新田四天王の一人とも言われた亘理新左衛門早勝が延元3(1338)年7月2日越前国糟谷足羽の合戦で、主君義貞が流れ矢に当たり戦死した折に、早勝が義貞の頸を泥田に埋め、義貞の愛した銘刀・陣羽織そして後醍醐天皇から賜ったとされる名鏡を懐に入れ、この渡田の地に戻ると長く遁世生活を続けたが、村人が早勝からこの三品を賜り松の根元に埋めて新田大明神として崇め、渡田村の鎮守の神とした。というのが大田南畝が『調布日記』に書き写した「新田大明神旧記略」の一節です。『江戸名所図会』『武蔵国風土記』に載る新田神社の創建由来は、いずれもこの旧記略が基になっています。

では、新田四天王と言われた武士は誰かというと、鎌倉幕府滅亡から南北朝の変還を記した『太平記』には、「一党を結んだ強弓の武士たち、十六の党と呼ばれた武士達」を挙げて、その中に栗生左衛門・篠塚伊賀守・畑六郎左衛門時能・亘理新左衛門早勝が出てきますが、新田四天王とは記していません。江戸時代の歌舞伎には『太平記の世界』と称して南北朝に題材を求めた戯曲が多く見られますが、その一つ作者不明ですが、享保7(1722)年の浄瑠璃作品に「新田四天6王」がありますし、これも製作年代不明ですが、鶴谷南北が「新田四天王」という戯曲を書いています。浮世絵では年代が少し新しくなりますが、一勇斎国芳が、「勇魅三十六合戦」を描いていますが、その中の一つ新田義貞が稲村ヶ崎から太刀を投ずる浮世絵の中で新田四天王を描き、篠塚・畑・亘理・栗生の4人の武士の名前が出ています。

群馬県新里の善昌寺(新田義重の墓地)に新田義貞が戦死した延元3(1338)年から13年目に義貞の法要が営まれその時の法要を行なった御家人の名前を記した古文書がありますが、その文書中に四天王として篠塚・畑・亘理・栗生の名前が見られます。私は、新田四天王という尊称は江戸時代の享保年間の頃から使われたのではないかと思っています。義貞は1338年、義貞次男の義興は1358年に死去していますから、義貞・義興の没後400年はそれぞれ1738年、1758年になります。平賀源内があの有名な『神霊矢口の渡し』の戯曲を書いたのは明和7(1770)年のことです。この浄瑠璃は後に歌舞伎でも演じられるようになり、源内は福内鬼外のペンネームでもまた有名になります。

では、何故川崎区に新田四天王の話が出てくるのかと言いますと、現在の川崎区小田・渡田に新田四天王に関する伝承や塚、聖地が見られるからです。篠塚伊賀守の石塚、栗生顕友(左衛門)の栗生塚、亘理新左衛門の亘理塚、そして畑六郎左衛門一族の祀ったと言われる頼政塚です。頼政というのは、治承4(1180)年4月に平家追討に立ち上がった源頼政のことです。これら以外にも新田義貞が寄付したという馬場、義貞の守り本尊と伝えられる成就院の不動明王像、渡田では義貞のことを飛び将軍と呼んでいたという伝承が残っています。これらの伝承・塚・聖地が載る史料は『江戸名所図会』『武蔵国風土記』『調布日記』などですが、四天王の塚をこれらの史料の記述をもとに整理してみますと、亘理塚は1749年、栗生塚は1770年頃、篠塚伊賀守を祀ると言われる石塚は小田村の正保4(1648)年の検地帳にてんび石塚とあり、篠塚伊賀守を祀ったという伝承はこの後に作られたものと思われます。畑一族の祀った頼政塚が確認できる史料は、享保16年(1731)の「小田村名寄帳」に載る頼政塚の地名です。

金石文や文献史料で見てみますと、どうも渡田の新田四天王伝承は1730年から70年頃に作られた可能性が高いように思えます。この点を矢口の新田神社との関連で調べてみますと、18世紀半ばから19世紀後半にかけて、江戸や周辺から多くの参詣客が矢口新田神社に来ていることが、『江戸砂子』『東海道名所図会』『四神地名録』などの地誌で確認できます。つまり、渡田の新田伝承もこうした矢口新田神社参詣流行に準じた物ではないかという事です。何故、このように一世紀近くも新田神社つまり新田義興に対する信仰が続いたかという点は省略しますが、今年は菅原道真没後千百年、新田義貞生誕七百年祭です。御霊信仰という点ではこの二者は少し関連があります。中世においては、死者の怨霊は恐ろしい物としてその死者の御霊を鎮めるという対象で考えられてきましたが、近世に入りますとそうした恨みを持つ死者の魂を現世利益として積極的に信仰しようとする考えに変わっていったと言われます。(「怨霊信仰の変還」)新田義貞や義興は18世紀や19世紀では、自然災害や悪疫から身を守ってくれる善の魂と見られます。また、この二人の御霊に忠義の念を強く感じていたこともあると思います。天明・明和は田沼の賄賂政治の時代、富士山・浅間山の爆発など自然災害の年代でもありました。

小田の新田四天王の一人と言われる畑六郎左衛門の末裔と名乗る畑家が、頼政塚を伝え、八幡社をお持ちです。また渡田の田口家は亘理新7左衛門の末裔と名乗り新左の屋号をお持ちです。皆さんもこうした話を聞くと本当なのかなという疑問を持たれる方も多いと思います。群馬県の邑楽郡にお住まいの藪塚喜声造氏の書かれた『新田一門史』という膨大な量の書物があります。これは、藪塚氏が日本全国に散らばる新田一門の末裔を追跡調査した本ですが、この中でも畑六郎左衛門の末裔と名乗られる旧家が十数家載っています。

皆さん、それぞれの事情とお持ちの史料をもとに旧家伝承をお持ちだと思うのですが、私は、どの家の話が真実でどの家の話は信憑性がないという議論は全く興味がありません。むしろ、そうした旧家伝承を生んだ時代背景を探ることの方が重要だと思います。専門家の間でよく言われることですが、こうした源氏ゆかりの伝承の背景には八幡信仰があると言われています。小田の畑家、渡田の田口家の旧家伝承が生まれた時代背景に、私は近世中期以降の村の中での本家の没落と分家の経済力の発展から生まれた対立があったように思えるのです。つまり近世の中期になると村の中でも階層化が進み近世初期の本家の威信を維持することが難しくなってきた。新たな、家系の再編が必要とされたのではないか。

先ほどの群馬県邑楽郡というのは、新田義貞が鎌倉幕府倒幕の旗をあげた生品神社のある、義貞の新田荘のある地域ですが、ここに新田支流の岩松家があります。新田岩松は南北朝時代には、足利方につき新田の正統(宗そう家け、一門の本家)と認められ、明治に入ると男爵の爵位を受けた家です。この男爵になった新田俊純としずみは猫男爵とも言われ、猫の絵を得意とした人物です。なぜ、猫の絵を書いたかというと、群馬県は養蚕業が盛んな地域で、ねずみが蚕を食べてしまうことから、猫の絵で蚕を守る為にこの俊純に猫の絵を頼みに来る地主が多かったそうです。関東一円からの依頼の記録が残っていますが、中には、この岩松家との繋がりが近世初期からあった事を家系図を使って証明する文書を出して貰っていたという史料が群馬大学図書館に残っているそうです。これは、群馬県の村々でも近世中期から本家の威信が下がり分家の経済力が強くなると、本家・分家の対立を生み、新たな家系の再編に迫られた本家の地主が、この岩松家と交流のあった事で証明しようとする動きが多かったことを伝えています。私は、この話は川崎の新田伝承についても大変深い示唆を示しているように思えるのです。つまり、多摩川下流にある新田伝承の聖地・塚やそれらにまつわる旧家の話も、新田義貞・義興没後400年に関連して作られた、地域での、本家の威信を再認識させる為の話ではなかったのかと思うのです。

では、近世中期からの村の階層分化によってもたらされた本家の威信低下を、新田義貞・新田義興没後400年に絡めて再認識させようとしても、小田・渡田に伝わる塚・聖地・伝承などが、『江戸名所図会』『武蔵国風土記』に書かれているように、詳細な歴史伝承を突然につくりあげたとはどうも考えにくいのです。それなりの、時代背景があったのではないかという事です。鎌倉時代の中期から後期にかけての川崎市の状況は史料が全く残っていない為、十分な事は判っていません。土地の殆どは関東御領と呼ばれた北条氏一門の土地であったようです。鎌倉幕府倒幕に功績のあった武将に対する元弘3(1333)年8月の後醍醐天皇による叙位耳目(任官式)では、足利尊氏は武蔵守、新田義貞は越後守に任ぜられ、尊氏は旧金沢時顕の領地武蔵国麻生郷(現川崎市麻生区)以下30郷荘の恩賞があったのに対し、新田義貞・脇屋義助兄弟の恩賞地を示す史料は全く残っていないのです。新田一門の所領地については関連史料から推測するしかありません。

1324(正中元)年9月、鎌倉幕府倒幕計画に失敗した後醍醐天皇は、幕府側から退位を強く迫られます。この後、十五代執権北条高時は持明院統の後伏見上皇の皇子を擁立し、光厳天皇とします。北朝一代目の天皇です。1332(元弘2)年3月の事です。この年は後醍醐天皇が再度倒8幕計画を立て、失敗して隠岐島に流された年です。(元弘の乱)光厳天皇は、幕府の滅びた1333年5月には京都を落ち延びて、岐阜県の不破の関で野臥(番場の宿)に捕われます。この時天皇に供奉していたのは、勧か修じゅう寺じ経つね顕あきと日野有元の二人だけであったと言われます。(「太平記」)この勧修寺経顕というのは、京都山科の勧修寺を氏寺とする藤原北家の血筋です。経顕は光厳天皇の信任厚く、天皇が上皇となってからも、北朝の重臣として活躍します。
1335(建武2)年7月、十五代執権北条高行の子時行が信濃で兵を起こし、鎌倉に攻め上り20日間ではありましたが、鎌倉を占拠します。中先代の乱とも20日先代の乱とも呼ばれます。足利尊氏はこの反乱に対し、後醍醐天皇の宣旨も受けずに挙兵し時行の軍を大敗させますが、尊氏は鎌倉で後醍醐天皇に背く事を決意します。この時、京都では後醍醐天皇と光厳上皇の対立が顕在化してきます。後醍醐天皇は、新田義貞に足利尊氏追討の宣旨を与えます。尊氏と義貞の武力衝突で建武の新政は事実上の破綻を迎える訳です。1335年11月の箱根竹ノ下の合戦で義貞を敗った尊氏は翌1336年の正月に京都に入り、後醍醐天皇に退位を迫ります。この時、奥羽にいた北畠顕家が新田義貞を引き連れ京都に入ります。情勢不利と判断した尊氏は兵庫から船で九州を目指します。その途中で備後国鞆で光厳上皇から今度は、新田義貞追討の院宣を受け取ります。持明院統と大覚寺統との抗争が武力衝突になった重大な決定でした。この年の8月に尊氏は光厳上皇の弟を光明天皇として即位させます。北朝の代二代天皇になります。そして、9月には光厳上皇は、河崎荘を勧修寺領として安堵するという院宣を出します。先程、光厳上皇が天皇在位の時に京都を追われ、それに供奉していた公家に勧修寺経顕の名前を挙げましたが、この経顕は勧修寺を氏寺とする公家です。北条高時が光厳天皇を擁立した時に河崎荘はこの光厳天皇か勧修寺経顕に譲られたのではないか。それが、建武の新政により後醍醐天皇から新田義貞ないしは脇屋義助に与えられた。そして、建武の新政が崩れた1336年に、光厳上皇は再度院宣により河崎荘を勧修寺領として安堵したのではないかとも考えられます。1333年から36年にかけて、河崎荘は新田氏の領地であったと私は推測しています。

稲毛荘についてもどうかというと、南北朝時代に入り足利尊氏(高師直の京都)と弟直義との間で権力闘争があ ります。これを観応の擾乱とよびますが、結果的には尊氏の勝利となります。この闘争で尊氏方についた江戸遠江守が稲毛庄12郷を与えられたことが判りますが、それ以前の領主については全く判っていません。新田義貞が1333年に鎌倉幕府倒幕に立ち上がった時、新田支流の岩松経家という武士が参陣しています。その子の直国は新田岩松の五代目になりますが、後に足利尊氏の北朝方につきます。義貞の二男の義興が矢口の渡しで戦死した1358年には、鎌倉公方の足利基氏に仕えていました。基氏の執事であった畠山国清が基氏を裏切り反乱をおこした時には国清を討ち、この時に新田義貞以下新田氏の武蔵国を初めとして関東一円の没管領に対し新田宗家として惣領職を認められました。1361(正平16)年の事です。具体的にどこの土地を所領したかは不明ですが、直国の子の満国が室町幕府に申し出た文書に「岩松氏所領注文」という文書があります。1395(応永2)年の文書です。この中に矢口六郷一円と書かれていて、当時の矢口・六郷全域が岩松満国の領地であった事が判ります。(『大田区史』)また、同じ頃の1384(至徳元年に同じ直国の子の岩松国経が稲毛新荘内の渋口郷(現川崎市高津区子母口)に入ろうとした時に、以前にこの土地を支配していたと思われる江戸氏一族の反抗を受けたという史料があります。(『川崎市史』)これらの事からも岩松氏が稲毛荘や六郷保を手に入れる以前はこれらの土地が新田義貞や義興の土地であったことが推測されます。(『大田区の史話』)また、新田義貞・義宗と続く新田宗家の血筋は、9この後、後南朝の闘争をしていた貞方と続きますが、この貞方、1409(応永16)年に鎌倉七里ヶ浜で斬られます。この時、貞方は嫡男の貞政を武蔵国稲毛荘に落ち延びさせます。なぜ稲毛荘に身を隠すことが出来たのかは不明ですが、新田氏の勢力が何らかの形で残っていたと思われます。この貞政から政貞、政武、政貞と続く新田宗家は、後北条の時代に新田宗家として認められ相模国中郡西富岡の地を与えられ、宝地館と呼ぶ館を築いて後北条氏に仕えました。

江戸時代には徳川家康が世良田徳川を名乗ったことから新田宗家を名乗ることは止めて、堀田を名乗り西富岡の名主として村人を助けました。近代には医家として活躍し現在に至るそうです。
(写真の人物は新田宗家のご当主新田政邦氏です。)小田・渡田の地域は南北朝時代は多摩川の流路からして稲毛本荘に組み込まれたと思います。南北朝時代に新たに開拓されたのではなく、小田・渡田の地域は地名や板碑の出土から鎌倉初期に迄遡れる地域です。渡田の新田伝承はやはり新田氏が南北朝のある時期にこの地域を支配していた事から出た伝承だと私は思っています。その渡田の新田神社が創建されて何年かは不明です。また、本日の私の説もあくまで関連史料から組み立てた仮説です。私は、工業都市の中で多くの先人の方たちが伝承や由来を基に新田神社を維持し続けた事に敬意を表する者です。身近な足下の地域から、南北朝時代やその時代を代表する歴史的人物を学べると言う事は、川崎の隠れた魅力でしょう。どうか、本日の私の話をきっかけとして渡田の土地とそこにある新田神社に関心を持って戴き、是非とも一度足を運んでみてください。ご静聴どうも有り難うございました。