川崎の旧石器時代から古墳時代まで
〜最近の調査・研究成果から〜

2001年8月30日(木)
服部 隆博(はっとり たかひろ)
1961年 愛知県碧南市生れ。
明治大学大学院文学研究科博士前期課程 (考古学専攻)修了。
川崎市教育委員会文化財課を経て、現在、川崎市教育委員会文化財課主査。
『古代の知恵を発掘する』(福武書店)共同執筆
「ナイフ形石器の型式学的基礎研究」『考古論叢神奈河第1集』
(神奈川県考古学会)多摩丘陵南東部における後期旧石器時代遺跡の一様相」
『川崎市市民ミュージアム紀要第12集』
(川崎市市民ミュージアム)ほか

 川崎市市民ミュージアムで学芸員をさせていただいております服部です。専門は考古学です。考古学でも一番古いところの旧石器時代を主に研究しております。旧石器時代の中でも後期を行っております。今日は「旧石器時代から古墳時代まで」ということでお話をさせていただきます。この間は3万年もの時間があり、これを30分でお話しするということは無謀なことですので、最近の調査・研究の中で特に興味深いものを4点ばかりトピックとして選びまして、それを話題提供としてお話したいと思います。
 トピック1として「旧石器時代の川崎は過疎地だったのか?」ということで宮前区にある鷲ヶ峰遺跡を中心にお話したいと思います。
 トピック2として「縄文時代の“岸辺のアルバム”!?」ということで非常に珍しい多摩川の河川敷にある宿河原低地遺跡のお話をしたいと思います。
 トピック3は「縄文時代の川崎にも稲があった!」ということで、稲というと弥生時代に大陸や朝鮮半島から稲作が伝わって、始めて日本で稲が作られたと歴史の教科書で教わりましたが、実は縄文時代の終わりにすでに稲があったということが川崎の調査でわかりました。これは多摩区下原遺跡の調査です。
 トピック4は「古墳時代の地方分権!?」最近のはやり言葉ですが、古墳時代の中央と地方の関係というものを古墳を通して見直してみようと思います。
 今日はこの4つの話を中心に30分間お付き合いいただきたいと思います。
 まず最初のトピック1ですが、川崎で最も古い旧石器時代の遺跡は宮前区菅生ヶ丘にある鷲ヶ峰遺跡で、これは今から3万年前の遺跡です。それ以降川崎市内で現在まで旧石器時代の遺跡は9ヶ所発見されています。しかも非常に小規模な遺跡ばかりですが、実際この9遺跡が多いのか少ないのかは比較してみなければわかりません。旧石器時代の遺跡は、武蔵野台地では約230ヶ所、相模野台地では約200ヶ所、多摩丘陵北西部では約140ヶ所も発見されています。これらと比較すると川崎の9遺跡はいかに少ないかということがお分かりいただけるかと思います。横浜市を含めても40遺跡ぐらいしかなく、大遺跡というものがまったくありません。
 今でこそ人口126万人の大都市である川崎市ですが、旧石器時代は過疎地だったのかというテーマがうかびあがってきます。旧石器時代の遺跡がなぜ少ないかというと、1つは、川崎では旧石器時代の発掘が少ないからという考え方。もう1つは、小規模で遺跡が少ないということ自体が、川崎の旧石器時代の遺跡の本来のあり方なんだという考え方がありますが私は後者の考え方が妥当だと思います。将来的に発掘件数が増えてきても遺跡数はそんなに増えないだろうと考えております、しかも小規模な遺跡ばかりだと予想しております。こういう予想の中で川崎の旧石器時代はどういう地域だったのか。川崎の地域性をもう少しほりさげて考えてみたいと思います。
 旧石器時代の人たちは基本的には移動生活をしていました。移動生活が基本ベースにあることを頭に入れておいていただきたいと思います。ということは、当時まだ米を作っていなかったので定住すると食料が確保できない、定住すると採集した食料が枯渇してしまう、そのような理由から当時は数家族を単位として移動していた。しかも川を1つのルートとして転々と移動していたといえます。そういう見方をすると、当時の旧石器人の移動ルートというのは、多摩丘陵を挟んで、相模野台地から、武蔵野台地間を多摩丘陵西部の川がかけ橋の役割を果して両方の台地を結んでいたのではないか、これが基本的な当時の南関東の旧石器人の移動ルートではないかと私は考えております。多摩丘陵の南の川崎、横浜はどういうところだったのでしょうか。これは相模野台地←→多摩丘陵北西部←→武蔵野台地という基本的な移動ルートから派生してきた、旧石器人が回遊していた地域ではなかったかと思われます。しかも遺跡が小規模で少ないというところから考えますと、非常に小規模な集団が短期間に狩りや狩猟・採集をおこない、また本来のルートにたちもどっていったのではないか、つまり滞在期間が短く、訪れる回数がすくなかったというのが、旧石器時代の川崎の地域的な特性だと考えております。
 そういう見方をすると旧石器時代の川崎は、魅力のないところのように思われますが、発想を転換してみると、短期滞在、回数が少ないというところから今でいう別荘地のようなところではなかったかとイメージすると、又その地域性がわかってくると思います。実際にここで何が行われていたかという具体的な研究をこれから行っていきたいと思います。
 次に縄文時代に移りたいと思います。トピック2の「縄文時代の“岸辺のアルバム”!?」ですが、先ほど紹介した宿河原低地遺跡で、今から1万年前の縄文時代の早期と4千年前の縄文時代後期の2時期にわたる遺跡です。5年ほど前に発見され調査された遺跡です。実はこの遺跡は考古学を全く知らない一市民の方が発見されました。
 青少年科学館が化石の採集活動を宿河原で行っていたとき、多摩川の河川敷で土器を発見されました。まさか川から土器が発見されるということは未だかつて聞いたことがなく、その連絡を受けて私も半信半疑で、現地に向かいました。ところが現地に行ってみると土器や石器ばかりでなくトチの実やクルミ、木材が散乱しびっくりしました。なぜびっくりしたかというと、普通の遺跡ですと竹、木、骨などの有機物は土が酸性なので、みんな腐ってとけてしまう。ところが低地の水びたしになっている遺跡では、このような有機物は腐らないで残っている。これは非常に珍しいことで、しかも一級河川の川の中に残っているということは全国的に見ても非常にまれなケースです。この情景をみると縄文時代1万年前、4千年前ぐらいの人達が、多摩川で水さらしをして木の実を加工していた姿がまざまざと目の前に浮かんでまいります。まさに縄文時代のカプセルといっても過言ではない非常に重要な遺跡です。
 市民の方からのご連絡、当時の建設省の多大な協力など、関係者の皆様の誠実な協力があったからこそ、大きな成果に結びついたと思っています。そうでなければ、この遺跡は“岸辺のアルバム”!?として多摩川に流されてしまったのではないでしょうかのではないでしょうか。
 次に縄文時代の終わりの話に移りたいと思います。トピック3ですが、「縄文時代の川崎にも稲があった!」ということで、これは縄文時代の終わりから弥生時代の始まる直前の出来事で、手前味噌ですが、川崎市市民ミュージアムが多摩区にある下原遺跡という遺跡の研究をここ数年続けてきた研究の成果です。この下原遺跡は、用賀から東名に乗って多摩川を渡ってきて最初の橋がありますが、この橋の下が下原遺跡の場所になります。この下原遺跡は昭和40年〜41年に、東名高速道路建設の事前調査として発掘したものです。この下原遺跡から出土した土器の一部(縄文時代の晩期、今から3千年前から2千4百年前の土器)の分析を外山秀一先生にお願いしまして、土器の土の中に何が入っているかを分析してもらいました。そうしましたら土器の土の中から稲のプラントオパールが発見されました。そのプラントオパールとは、植物の細胞の中に珪酸というものがあり、その珪酸が固まったもの、化石化したものです。平たく言うとガラスみたいなものです。よくイネ科の植物をさわりますと手が切れますね。あれはプラントオパール(ガラス質)があるから手が切れるのです。そうしたものが発掘した土器の土の中に入っていました。
 教科書などでは稲作は中国大陸から伝わってきて弥生時代に移りかわったといわれていますが、最近の発掘調査では北部九州(福岡県、佐賀県)では、縄文時代晩期まさに下原遺跡と同じ時期ですが、既に水田があったことがわかっています。それが今回の分析によって遠く離れた関東地方のしかも川崎の多摩区の下原遺跡でも稲が縄文時代にすでにあったということがわかった。これはまさに縄文時代の終わりから弥生時代までの間、食料がどのように生産されてきたのか解明するのに学術的には非常に重要な発見だと思っております。しかし、ただ稲があったということだけでは、まだ十分ではなく、本当に重要な問題は、この稲が水田で作られたのか、ある意味では非常に管理された状態で今に近い状態で米が作られていたのか、それとも陸で作られたのか(自然に近い状態で作られたのか)栽培方法がどうであったかの研究、又ほかの穀物もどのように利用していたのかという研究をやっていくなかで、下原で発見された稲の歴史的な意義をもっと深くほりさげて研究していきたいと思います。
 最後にトピック4「古墳時代の地方分権」というお話をさせていただこうと思います。古墳時代の地方分権ということで、古墳を通して中央と地方の関係はどういうものだったかを、みていきたいと思います。その中で多摩川、鶴見川流域を中心とした古墳時代のはじめごろの様子、大和王権の成立していく過程の一番最初の段階の様子を見ていきたいと思います。なお、この話しは私の同僚であります市民ミュージアムの浜田学芸員の研究成果をもとにしています。まず古墳といいますと、特にポピュラーなもので前方後円墳というものがあります。これは古墳時代の初めから出てくるもっともポピュラーな当時の古墳の形でありますが、実は、古墳時代の前期には前方後円墳以外にも、円墳も同時に存在しておりました。これは今までの研究では、前方後円墳は、大和王権のシンボルだと考えられております。大和王権は地方の支配を進めていく過程の中で、直接の配下である地方にいる豪族に大和王権の象徴である前方後円墳を造るように命令した。その結果として地方にも前方後円墳が多く作られていると考えられております。しかし、関東地方の多摩川、鶴見川流域の古墳を見ますと、それにもかかわらず、円墳も造られている。ということは、関東地方では、大和王権の命令に反して円墳もつくられているのかという問題が出てきます。これはいったいどういうことかと言いますと、古墳時代の前期の支配構造を考えてみますと、1番トップに大和王権がありその下に地方にいる豪族がいて、地方の豪族の下に在地の小豪族がいます。今の行政機構に対応するかどうかわかりませんが、大和王権がある意味では国だとすれば、地方豪族は県、在地の小豪族は市町村というようにイメージしていただければわかりやすいと思います。そのような支配構造が古墳時代の前期にはあったと考えられておりまして、大和王権はそれを一元的に支配をしようとしていたようですが、地方の小豪族までは直接支配が行きとどいていなかったといえるのではないでしょうか。だから在地の小豪族はおかまいなしに円墳を勝手に作っていたのではないか。地方豪族と小豪族の主従関係は確かに成立していたけれど、一番下層の小豪族は直接大和王権の支配を受けていなかったのではないだろうか。つまり二重支配を受けていなかった。地方の支配は、大和王権は地方の豪族にまかせていたのではないかということが、この古墳のあり方から考えられるのではないでしょうか。いってしまえば、地方の統治方法について、大和王権は地方の豪族にある程度裁量を、裁量権を認めていたのではないかというような結論が出てまいります。これを現代の言葉で語ると、地方への権限委譲、一種の地方分権という形で表現できるのではないでしょうか。
 短い時間でさわり程度のお話しかできませんでしたが、もし興味をお持ちになられた方は、下の参考文献をお読みいただければ、もう少し詳しい内容がご理解いただけるかと思います。
 拙い内容の話ではありますが、これからの皆様のご活躍の中で、何かのねたとして使っていただく所がありあましたら、さいわいです。
 ご静聴ありがとうございました。

参考文献
服部隆博 2000 
 「多摩丘陵南東部における後期旧石器時代遺跡の一様相」『川崎市市民ミュージアム紀要』第12集
多摩区No.61遺跡発掘調査団 1998 
 『川崎市多摩区No.61遺跡(宿河原縄文時代低地遺跡)発掘調査報告書』
川崎市市民ミュージアム 2001 
 『下原遺跡 タ』
横浜市港北ニュータウン埋蔵文化財調査団 1986
 『古代のよこはま』
浜田晋介 2001 
 「前期前方後円墳と円墳」『川崎市市民ミュージアム紀要』第13集