川崎の場所を考えて― 都市の記憶とまち資源―
2002年5 月23日(木)

田中 友章(たなか ともあき)

1964年川崎生まれ。87年早稲田大学理工学部建築学科卒業89年同大学院修士課程修了。同博士課程に在籍して渡米し(93年中退)。91年イェール大学建築学部大学院修士課程修了。92〜96年 スティーヴン・ホール・アーキテクツに勤務する。97年帰国し、フォルムスを設立。99年より 早稲田大学、明治大学、東海大学で非常勤講師として学生の指導に当たる。明治大学でのスタジオ教育の成果は今回の展覧会となった。2000年より 川崎市住宅政策審議会委員を務める。01年展覧会を契機に「川崎のまち資源を考える会」を設立し、ホームタウンである川崎のまちを広域的・長期的視点から見つめ直す活動に取り組んでいる。一級建築士、アメリカ建築家協会正会員(AIA)など。

 本日は、「川崎の場所を考える」というタイトルでお話をさせていただきます。場所というのは皆様の身近にありとあらゆる所にあるものです。けれどもちょっと考えてみますと、世の中に2つとして同じ場所はありません。そのような「場所」について川崎という私たちのまちをテーマにお話させていただきたいと思います。サブタイトルに「都市の記憶とまち資源」ということばがならんでおりますが、このことについては順次説明させていただきます。私達の川崎のまちは、ある日突然できあがったものではありません。そこで生業をされているさまざまな方々が、ご尽力なさって長い時間をかけて作られてきたものだと思っております。その過程で道や建物を作ったり、更新したり、取り除いたりこのような少しづつの積み重ねで、長い時間をかけて私達のまちが作られてきたと思っております。長い時間をかけて作られてきたプロセスは航空写真などで同じ場所を、時計の針をもどすように見ていくと、ハッキリとわかってきます。私達のまわりにあるまちは長い時間をかけ、少しづつ少しづつ手を加え、その場所に変化を加えていく積み重ねによって、出来上ったものだということです。このように人が手を加えて出来たまちは色々なところにあります。たとえば川崎の臨海部というところがあり、ここに首都高の横羽線が通っていますが、このラインはかつて江戸時代に海岸線であった場所だと言われております。ですからここから海側の広大なエリアは、埋め立て地で、人間の手によって作られた大地だということが言えます。ここには、かつて多摩川が東京湾に注ぎ込んで、その堆積土でできた砂洲が広がっていた遠浅の海があったわけですが、やがて日本の近代化が始まり、鶴見の方から順番に埋め立てられていきました。この埋め立てには安田善次郎とか、浅野総一郎という人たちが関わりまして、その名前を町の名前に残しています。埋め立てが進んでいくと、もともと手つかずの海岸線にいく層にも積み重ねるように土地が作られていき、現在の臨海部の埋立地ができあがりました。そういう積み重ねの地層みたいなものが、ここにあるように思えます。古い写真を見ますと、海水浴や潮干狩りができる遠浅の浜が広がっていて、そのわきに競馬場があったり、ちょっと沖に出ますと広大な海苔場が広がっていた、そのような場所が、かつて私達の川崎のまちにあったのです。けれども、これが数十年の間に埋め立てられ、一面の工業地帯に姿を変えました。これはたった20、30年の間に起こったことで、非常に大きな変化でした。ここで申し上げたいのは、今のようにまちを作っていく中で手を加えていくという作業は、それぞれ個別のこととして行なわれているのですが、これらが積み重なると大きな変化となり、そのようにまちができていく。それは一続きの時間の中で行われてきたことなのです。まちが発展する過程で、古い建物、それがもともと建てられた用途に使えなくなってしまったものは順次、新しい建物、性能の良い建物に作り変えられていきました。これはまちを更新していく上で、必要なことでした。私がしている建築設計という仕事も、そのお手伝いをすることです。建築の技術も進歩や法規制の改変により、大きい建物が建てられるようになりました。川崎の駅周辺でも古くからあった工場や倉庫は姿を消し、新しいオフィスビルへ建て替りました。これはまちを経済的に発展させていくために、非常に大切なことだと思っています。けれどもそのような公共的は場所に建っていた特徴的な建築には皆の記憶が宿っているかもしれません。そのような建物をどんどん壊し建て替えていく、俗にスクラップアンドビルドと言われますが、このようなことが川崎でも当り前のように行われてきました。けれども、これからも、こういうことをずっと続けていって良いのかと疑問に思います。アメリカにあったニューヨークのペンシルバニア鉄道の中央駅がかつて60年代後半に取り壊され、マジソンスクエアーガーデンが建てられました。この駅が取り壊されたとき、ニューヨーク中は大騒ぎになりました。これはペンシルバニア鉄道の持ち物ですが、この駅を毎日使って大切に思っていた方がたくさんいまして、彼らにしては、自分の大切な駅を勝手に、断りもなく壊されたということになります。そして声を上げる人たちがたくさん出てきて、これをきっかけに町の中に残された建物、それが古くなってしまっても、その中で大切なものは公共的な価値を見出そうという運動が盛んになりました。俗にヒストッリク・プリザベーション(歴史的建造物保全活用運動)といいます。これはまち中で、駅とか駅前にある皆が親んでいるものとか、公共性の高い建物に特別な性格を見出して維持していこうということです。アメリカは新しい国なので、日本の法隆寺のように古い歴史的な建物はありません。たかだか100年、200年のもので主には19世紀、20世紀のものです。そのようなものでも自分たちにとって大切なものは守っていき、それを地域の持続的な発展につなげていこうという考え方が生まれてきました。考えてみますとこれは1970年代に定着した運動で、ベトナム戦争後の経済が停滞しているときに起ったことです。おそらくニューヨークの人たちはこのときに1度立ち停って考えたと思います。自分たちにとって一番大事なものは何かと。もしかしたら日本も現在、同じようなことを考えるべき時期になってきているのではと思います。

 過去の歴史の一部を残した新しい建物がまちの中に残り続けるという意味を考えてみますと、歴史の痕跡を残してある建物を題材に話をすることで、自分のまちがどのように発展してきたかを語ることができるのだと思います。そうすると歴史の一部を残している建物は、まちについて生きた言葉で話をするときの、生き証人の役割を担ってくれるのではないでしょうか。それが残っているということで、まちの歴史や成り立ちを世代を超えてつないでいけるのではないかと思います。私はこういうものを「まち資源」と呼んではどうかと思っています。たとえばこれは建物だけでなく、駅とか橋とか水門とか色々なものが考えられると思います。それは自分たちのまちでユニークなもの、発展につながっているものそういうものを資源として認め、使い方を考えたらと思います。資源と呼んでいるのは使わないでおいたら資源の無駄使いです。ですから、そのようなまち資源を再利用したり、再活用したり再生したりすることが非常に大事になっていきます。このようなことをするにはハードな資源がまちの中に残っていることと、それを使うソフトの資源(人的資源)があるということが重要で、それを組み合わせていくことが大切だと思います。私たちのまちは現在に至る固有の発展の道程があり、地形の上に人々の営みが重なっていっています。そういうものが何層にも重なっていき、江戸時代から現代に向かって地層のように積み重なって私達のまちができているのです。ですから次の一歩が何かを考えるとき、これを全部取り去って新しいものを作るのは私はナンセンスだと思います。そのためにはまちの中に大切なものを探していく、まち資源を発見していくことが非常に重要だと思います。まち資源を探していくことは大変なことで、まちの変遷の様子を丁寧に見直して、その上をおおっているベールがあれば順に取り去っていき、自分たちのまちに大切な何かを探していく作業が大切です。それを私は「場所を読む」といっています。言い換えるとまちはそれぞれ違った特色をもっていますので、丁寧に読んでいって、その長所、短所にぴったり合ったものをつくり、それで過去と未来をしっかりとつなぎ合わせることが大切だと思います。

 本日、まちが過去からの長い時間の中で変化していく様子をお話ししました。このようにまちはその生きている時間の中で生物のように形を変えていきます。まちが生きている時間はとても長くそれに比べると、人間が生きている時間はなんて短いんだろうと思います。けれども私たちはこの限られた時間を未来に向けて広げていく方法があると思います。言い換えるならば「まちを守り育てて、持続的に次の世代に渡していく」そういうまちづくりの活動が今必要ではないかと思います。そのためにはいろいろな立場の人が知恵や力を合わせていくことが大事で、そのためにはまちづくりはとても良いプラットフォームであると思います。最後に20世紀の建築家で偉大な思想家であったバックミンスタフラーの言葉で締めくくりたいと思います。

「グローバルな視点から考えよう、そして地域で行動しよう」
(Think Global, Act Local)

ご清聴ありがとうございました。