川崎の古民謡
2002年5 月16日(木)

角田 益信(かくだ ますのぶ)

昭和4年川崎生まれ。
東芝に入社平成元年 退社この間、東芝が開発したテープレコーダを担いで、川崎の古民謡を記録。
現在 「川崎郷土研究会員」著書 「川崎の古民謡」上・下「多摩川音頭夜話」「川崎の紙すき」他多数。

  川崎駅前の会社に勤めておりまして、戦後30年代には地元のお年よりで、古い歌を歌う方が大勢おりましたので、テープレコーダーでとって回ったのですが、その数はだいぶあるので、川崎に関係のある歌を紹介したいと思います。川崎郊外の中原、宮前区あたりに戦後80才ぐらいのお年寄りがいらっしゃいまして、行きますと、古い歌を歌ってくれるのです。「川崎甚句」とか「川崎都都逸」を歌ってくださったのですが、どうして「川崎甚句」「川崎都都逸」が郊外の山の中の農村に伝わっているのかと聞いてみますと、当時仕事が終わってから川崎まで遊びにきて、川崎ではやっていた「甚句」を覚えてきたということです。どのようなものがありますかと聞くと、一般に歌われています多摩川園あたりの「ごしゅく甚句」「平間甚句」ですね。その系統の歌ですが2、3ひろってきました。その中にこういう文句があります。「押せよ、押せ押せ六郷の渡し、コリャショット 川崎通いが遅くなるコリャコリャ コリャサト」「行きも帰りも多摩川超えて、会いにきたのに帰さりょか」これが川崎に関係した文句です。どんな歌かといいますと、最初に「ハハァ〜」といいますが、この「ハハァ〜」がなかなかむずかしくて、人によると3日かかるという人もいます。この歌は川のむこうの、今の大田区の方が歌った歌です。川崎にも有馬の農村の方が戦後まで引き継いでいたのです。もう一つどんなものがあるかと言いますと、「来たぞ、来たぞや左内橋こえて、会いにきたのになぜ会わぬ」左内橋というのは、今の六郷橋がかかる前に、六郷のいかだ宿の鈴木左内という方が、明治7年にかけた木橋の仮り橋です。これも川向こうの人が歌った歌です。この木橋ですが、料金をとりまして人が三厘、人力車が一銭、馬車が六銭二厘、馬だけが一銭。この左内橋は長さが六十間、幅が三間、しかし明治11年9月15、16日の大洪水でこの左内橋は流されてしまいました。もう橋が流れたので、この歌も歌われなくなって後に六郷橋がかかりました。このあたりの歴史が戦後まで歌に残っていました。川崎にもこのような歌を知っておられる方がいらっしゃると思いますが、山のほうの農村のおじいさんが歌っていました。それ以外にどのような歌があるかというと、歌がだいぶくだけてきて、これも明治の終わりごろから大正の震災の前頃川崎に遊びにきて、川崎のほうではやっている歌を覚えてきたというものですが、「川崎新地は蛍の名所、おれもわれもと飛んでくる」「川崎小土呂は目の下なれど、なぜかマミヤは目の上か」小土呂の2階で歌ったんでしょう。いま一つはまたちょっとくだけ「ノミの高塚、シラミの金波、なぜか吉田にダニがいる」話はそれますが奥多摩にいかだにのった方がおられまして、調べに行ったのですが多摩川を下って川崎で一泊して早く川崎に着くと途中の旅費が浮くので、先ほどのところに宿泊したそうです。

 奥多摩にははいからな名前があります。「きみえ」とか、「みさ」とか、本当は戦後のおばあさんは「すみ」とか「とみ」とかの名前が多いのですが、どうしてかというと川崎でなじみの人の名前をつけた場合が多かったそうです。そのような面白い話があります。川崎と奥多摩にはだいぶ縁があるようです。またいま一つ「鳴くなチャボ鳥、まだ夜は明けぬ、明けりゃ大師の鐘が鳴る」これもいい文句です。私の一番好きな文句です。またいま一つ「川崎今朝出て平間の土手で、雨の降らぬにソデしぼる」まだ多摩川を下りまして、いまの中央線ですか、甲武鉄道、また今の横浜線ができる以前は、川崎へ泊まってから歩いて帰ったそうです。朝早く出て平間の土手で、つゆをしぼるほどソデがびっしょりとなったそうです。このように川崎に関係した面白い歌が戦後まで歌われていました。

 私はこれを録音して、一つの無形の文化財的なもので、非常に好きな文句なんですけれども、この「川崎都都逸」「川崎甚句」は一般的に歌われてきたので、川崎で覚えてきたので「川崎甚句、都都逸」といったようです。又わたしがびっくりした事があるのですが、奥多摩から少し離れた五日市の山の中に行きましたところ、そこのお年寄りが「川崎節」という歌を歌ってくださったのです。「どうしてこの歌を知っているのですか」ときいてみますと、いかだで下って川崎に泊まって、当時川崎ではやっていた歌を覚えたのでとおっしゃっていました。この「川崎節」も「川崎甚句」ですね。2、3あげますと「川崎女郎衆はいかりがつなか、今朝も出船を2艘とめた。」「きせる手に持ち、さおさすませを、するやつあ船頭さんにまぶがある。」「馬方、船頭はこじきにゃ劣る、こじきや夜寝て昼稼ぐ。」馬方さんや船頭さんは一晩中働いた。船頭も夜でもお客さんがくれば出さなければならなかった。これが「五日市」の山の中で歌っておりました「川崎節」です。戦後川崎の人に聞いたところ「そんな歌は知らないよ。」と言っていました。今も知っている方はおられないと思います。文句はこのような文句ですが、曲は「甚句」の流れです。少し崩れた「甚句」です。ですから川崎と奥多摩は多摩川で結ばれまして、非常に遠いようで近いような関係ですね。春に梅の咲くころ、青梅に行ったことがあるのですが、梅がありまして、「この梅はなんという梅か」と聞きましたら「小向」というのです。お年寄りの話を聞きますと、むかし多摩川で下ったいかだ屋さんが毎年帰ってくるとき、小向の梅林から一番よくなる枝を見ておいてその一番いい枝をもってついだものだそうです。ですからよくなりますよね。小向の梅林で一番よくなる枝を持ってきてついだのですから。どうしたらいいのですかと聞くと、梅干にしたり、焼酎づけにするのがいいといっていました。小粒ですが、とてもよく実るといっています。しかし、今青梅に行ったら小向の梅があるでしょうか。いかだ屋さんが多摩川べりを歩いて帰ったときに、もって帰ったのですね。今小向にも梅がありますけれども、新しい品種で当時の梅があるでしょうか。

 という風に川崎多摩川を通じて、小向という梅があったり、川崎のはいからさんの名前がついていたり面白いところだと思いながら、奥多摩に行くのを楽しみにしております。最近は奥多摩に行ってもお年寄りがいなくなり、面白い話が聞けなくなりました。当時はリュックサックに大きなテープレコーダーを持って録音させていただきに参りました。ところが畑などにはコンセントが無く、かついで行ってもコンセントが無く録音ができなかったこともありました。また帰ってもどったこともありました。今は非常に録音し易いのですが、マイクを向けるとなかなか歌ってくれません。このようにして録音したものがあるのですが、当時大正の頃まで奥多摩からいかだが下ってまいりまして、いかだには「長杉いかだ」「角いかだ」の2種類が当時の話を聞くとありました。どのくらい長いと聞きますと、長さが6間から10間、前幅5尺5寸、後幅10尺で三角のような形です。それをつないで下ってくるのですが、最初このいかだは山で組みまして、一枚のいかだに二人乗って、青梅線の沢井まで下りまして、次に一枚のいかだに一人乗って、青梅まで下りまして最後は羽村の関から1人で2枚半下ったといっておりました。またいかだの方は「いかだ歌」というものがありまして、どんな節ですかと聞きますと、「川崎甚句」の系統の流れだと言っておりました。この文句は「きのう山さげ、今日は青梅下げ、明日は羽村の関おとし、関をおとせば府中が宿でかわいいあの子が手でまねく、いかだ乗り、実で乗るか、浮気で乗るか、浮気流して実で乗る」

 という文句です。お昼に羽村の関を出まして、調子がいいと拝島から日野どまり、次は登戸または調布、3日目に六郷につけば調子が良くて1、2晩の旅費がかせげたそうです。冬の渇水期になりますと、水が無いので1週間から10日かかったと言っておりました。川崎に来ますと浅田屋とか、なるみ屋、いなり屋がいかだ師の定宿です。

 では「大師節」についてですが、川向こうの羽田だと「羽田節」といいます。戦後大師河原の漁師の方から色々録音させていただきましたが、当時は今とはだいぶ節が違っているかもしれませんが、大師河原で集めた文句が23集ありました。その中で「おせどに蔵が七戸前、七戸前の蔵よりも親が大切」「川崎ではやる大師様、朝参り、晩には利益さずかる」「めでたいものは芋でそよ、じく長く葉ひろく子供あたまに」「七福神のお酒盛り、エビと鯛を飾りて差しつ押さえず」「京から下るお出家さん、手には数珠たもとに恋の痴話文」「お前さんとほれたのは去年から、帯をといて寝たのは今宵はじめて」などがあります。戦後大師河原のお年寄りから、この「大師節(羽田節)」はどこから来たのかと聞きますと、むかし四国の金毘羅様に行った方が、四国ではやっていた歌を覚えてきたといっておりました。羽田に行って聞いてみると、これは伊豆から来た方が持って来たと言っておりました。色々説はあるようです。当時は船おろしとか、新築祝いなどめでたい時に歌ったようです。これも伴奏が無く、手拍子の「すうたい」、「すうたい」は非常に難しくごまかしがききません。戦後はみなさん独唱で「大師節」を歌っていただきました。これも「え〜」が非常に難しいです。ご清聴ありがとうございました。