水の都ヴェネチアと川崎河港水門
2002年4 月25日(木)

熊谷 雄二(くまがい ゆうじ)

1948年 川崎区京町生まれ。
1972年 慶應義塾大学法学部卒業。
川崎市役所入所、主に研修、企画、都市計画、文化部門等を歴任。現在、川崎市監査事務局副主幹。
主として都市と子供をテーマに論文等を発表している。
「子供の目からみた都市計画」(『ASITA』)、「こどもの目」(『宅地開発』)、「都市と子供」(『都市科学』)
その他。

はじめに

 今日これからお話致します河港水門についてですが、飯塚さんからご紹介がありましたタイトルが「水の都」となっています。実はこれは『川崎市史』の中に用いられている言葉で、川崎が、もしかしたらこの運河が出来た暁には、水の都になったかな、ヴェネチアみたいになったかな、ということですが、むしろ私の印象ではヴェネチアよりは中国にあります蘇州の方がそのイメージに近いのかなと思っております。上海から西に約1時間半位電車で行った所に蘇州、例の寒山寺の鐘で有名な所ですが、あの蘇州の水路造りの方が近いかなと思います。非常に大きなタイトルですが、水にまつわる話を少しさせて頂きたいと思っております。

 お手元にレジュメと若干の資料をご用意させて頂いております。メモを取るようなお話ではございませんので、お気軽にお聞き頂きたいなと思っております。

産業遺産と世界遺産

 最近産業遺産という言葉がだいぶ喧伝されております。人によりましては近代化の産業遺産という言い方をされている方もいらっしゃいます。この産業遺産をちょっと見直そうじゃないかという動きがあります。特に昭和のはじめ頃に出来た、とりわけ土木を中心とした構築物を見直そうじゃないかという動きが学会を中心としてあります。例えば土木学会や都市計画学会などから、産業遺産という言葉が、いわゆる情報として発信がされております。レジュメにも書いてありますように、産業遺産というのは「近代化(工業化)に貢献した産業施設・設備・技術及び建物並びに鉄道、港湾、土木及び運河といった社会的なインフラストラクチャー、そういったものの総称である」ということです。何故この産業遺産が最近になって喧伝されたかということですが、どうやらこれには2つのファクターがあるように思います。

 ひとつは1972年にユネスコの総会で採択されました世界遺産条約が契機かなと思います。いまひとつが平成8年、1996年に文化財保護法が一部改正され文化財登録制度が登場したこと。こういった2つのファクターが産業遺産をプッシュしたのかなと思います。

 簡単に世界遺産についてご紹介致します。実は世界遺産は3つの要素からなっております。ひとつ目が文化遺産、ふたつ目が自然遺産、みっつ目がこの文化と自然の両方を兼ね備えました複合遺産、この3つのファクターから世界遺産が構成されております。

 今現在、世界で690の世界遺産が登録されております。世界遺産条約は1972年にユネスコの総会で採択されたのですが、日本政府がなぜ、なかなか動かなかったのかわからないのですが、20年後の1992年、平成4年になってやっと世界遺産条約を批准しました。先進国では最も遅い方で、順番からしますと125番目に批准したことになっております。このように世界遺産の条約批准に対してはなかなか重い腰が上がらなかったのですが、やっと日本政府もその辺の重要性を認識して先進国並になったのではないかということが言えると思います。ちなみに現在、日本で文化遺産、自然遺産そして複合遺産登録はどの程度あるかと申しますと、文化遺産については例えば法隆寺、姫路城、原爆ドームをはじめとして7ヵ所。自然遺産については屋久島とか白神山地などがございます。最近になりまして石見銀山ですとか、佐渡銀山についても登録に向け準備中であるという話を聞いております。

 こうしたことが伏線となって産業遺産を裏から推進したということが言えるのではないでしょうか。

 もうひとつのファクターが文化財保護法が改正されたことです。これは平成8年のことですが、従来ですと、文化財というときわめて厳選され、しかも許可制という、いわゆる強い規制と保護を目的としたものであったのですが、この改正により規制が非常に緩和されました。従来ですとそれこそ釘1本貫くにも文化庁の許可が必要だったわけですが、もう少し緩やかにしようじゃないかという動きが出まして、結局この文化財保護法の一部を改正して、文化財登録制度という、今までの許可制から届け出手続きだけで外観などの改造ができるようになった、というのがこの改正の趣旨であります。

「三惚れ!が大事だ」

 産業遺産がこのようなふたつの要因によって少し見直されてきた、ということになります。

 結局こういう難しい話よりは、やはり自分の国の風土、あるいは自然、あるいは地域社会のさまざまな要素や伝統というものをやはり愛した方が良いのかな、ということが言えるわけで、レジュメにも書いてありますが、「三惚れ!が大事だ」ということに帰結すると考えております。

 これはどういうことかと言いますと、内務省、特に自治省を中心に官僚の中で使われていた言葉らしいのですが、この『三惚れ』は≪3つの事に惚れましょう≫ということで、『一つは仕事に惚れること、そしてもう一つが女房に惚れること、そしてもう一つが地域に惚れるということ』のようです。さいか屋さんの裏側に『三惚』という天麩羅屋さんがあるのですが、あそこもどうもこの『三惚れ』という言葉に因んだということを聞いたことがあります。この『三惚れ』という言葉、今日の私の話よりはむしろこの『三惚れ』という言葉だけ、ご存知なかったら覚えていただけると嬉しいなと思います。地域に惚れていくことの大事さ、これが産業遺産にも繋がっていくのかなと思って、あえてお話したわけです。

川崎河港水門

 それではつぎに本題の川崎河港水門についてお話申し上げます。着工と竣工の年月日が記載されていますように、大正15年の11月に着工されて、昭和3年の3月に竣工しております。約1年半かけてこの河港水門は出来あがっております。構造形式としましては鉄筋コンクリート造で、後程ご説明したいと思っているのですが、実は鉄筋煉瓦というものを採用しております。

これは今行っても見ることができます。高さ20.3m、水門幅10.0m。所有者は川崎市の建設局でございます。先程ご紹介申し上げました国登録の有形文化財で、平成10年の9月25日に指定をされたというのがこの河港水門の概略でございます。

それでは何故この河港水門が建設されたか、産業ということで、誰がいつ、どのようにしてこの計画を立ち上げて、今日にまで遺産として残るのような河港水門の建設に繋がっていったか、ということについてお話申し上げます。

建築というと例えば黒川紀章さんとか、丹下健三さんとか、最近のはやりですと安藤忠雄先生をはじめ、設計された個人の名前がすぐ出てきます。ところが土木構造物にはこのような設計者の名前が付いていないということに、私はかねがね疑問を持っておりました。

もしかするとこういう立派な河港水門についても、かなりの方がお造りになっているのではないかな、ちょっとその辺を調べてみようかな、というのが動機づけでございました。

およそ10年位前からこの河港水門を調べて何回かこれについての論文を発表したり、新聞の取材を受けたりもしていました。また教育委員会の方にもいろいろな資料を差し上げた経過もございます。

こうした経過と調査の内容などについて、次にお話しいたします。

金森誠之

 当時の川崎市の一般会計は大体200万から300万円前後でした。ちなみに河港水門の工事費が53万7,120円です。これははっきりとしております。そういたしますと、大体一般会計予算の四分の一強という予算を投下して、河港水門を造るとは当時の市職員も思っていなかったと思います。そうしますと誰か仕掛け人がいたのかな?と睨んだ結果、浮上しましたのが多摩川の改修事務所長でありました金森誠之という人物です。

 角川書店の人名辞典をひきますと、わざわざルビが附ってありまして「かなもりせいし」と書いてあるのですが、正確には「かなもりしげゆき」と読みます。これはご子息が東京の大森にご健在でいらっしゃいますので、確認しましたところ、お父様のお名前は「しげゆき」である、という確認をとっております。この金森さんは多摩川の改修事務所長として赴任した時期が2回ございます。1回目が大正13年(1924)から昭和4年(1929)。もう一回が実はあまり間はおかれていないのですが、昭和5年(1930)から昭和6年(1931)であります。金森先生についてはまた後で簡単に触れたいと思いますが、東大の土木工学科を出た、和歌山の出身の方で、いくつかの業績をお持ちです。

 このうちの一番立派な業績が実はこの川崎の河港水門です。

 その他については八郎潟の干拓事業。それと昭和15年に東京オリンピックが開催される予定だったのですがご存知のようにこれは中止になりました。その際に戸田の漕艇場を造る計画があり、ボート競技場の設計をされましたのが、実はこの金森さんです。

 というわけで、土木の歴史からするとこの金森先生というのは非常に大きな存在の方で、土木学会からもこの先生を再評価しようじゃないかという動きがあるようで、なかなか立派な方が川崎とかかわってきたのかなと思うところです。

 そこで河港水門が大正15年(1926)11月に着工したことは、どの本にも書かれている事実であります。ではこの金森さんが川崎の地にきて何を仕掛けたか、あるいは当時の川崎市とか、他の方とのリンケージ、どういった形でリンクしているかということで、そのリンケージを調べてみようかな、というのが私が着目したそもそもの発端でした。

 今申し上げましたように、金森さんがもしかしたらこの河港水門を造ったのではないかな、ということで目星を付けていろいろ当たったのですが、なかなか確証が見つかりません。特にご存知のように市役所は空襲で一部庁舎が焼けて古文書が焼失しております。当時の川崎というのは、今もそうなのですが、例えば一つの都市計画事業を立案すると必ず県を経由して国に出すというプロセスを踏みます。そういたしますと、おそらく神奈川県の方には一部資料が残っているのかな、ということで公文書館などあたったのですが、残念ながらあの当時の資料は全くございませんでした。

横浜貿易新報

 結局出てきたのが大正13年(1924)の12月17日の日付が入りました「横浜貿易新報」を見つけました。今の神奈川新聞の前身です。現在の神奈川新聞はその地方版において非常に細かい記事を毎日情報として提供していますが、横浜貿易新報当時も全く同じで、編集のスタイル、あるいは取材のスタイルは全く変わっていないようです。実は12月17日の日付の記事というのは、前の日に何かおおきな動きがあって、記者がそれを書き留めて翌日の新聞に掲載したパターンで、「横須賀・川崎11郡」という1ページだけの地方版がありまして、そこに記事を見つけました。その記事には何が書いてあったかということですが、「五百萬円を投ずる土木大方針樹立=道路網の根本調査=縦横根幹道路並びに田島の一端により大運河を開鑿」という記事を見つけました。

 これを私なりに分析致しますと、次のようなことが言えるのではないでしょうか。ひとつ目が、金森が関与していることが窺いしれる。つまり大正13年というのは、金森さんが多摩川の改修事務所長として赴任した年と一致しています。ふたつ目に運河計画というのがいつ頃浮上したのかというのが長い間の疑問でした。今のところ公式に確認されているのは、昭和9年の、今でいうと神奈川県の地方都市審議会で公式に論じられております。従ってそれは私も調べて一致したわけなのですが、そうではなくてどうも大正の終わり頃にすでにこの運河計画が計画されていたというのが、この一つの新聞記事でもわかりました。みっつ目に幻の運河計画は、計画上三筋あります。後でご説明しようと思っているのですが、運河は計画上三本ございます。どうもこの記事はその内の一つに当たっているのかなと思われます。最後に幻の運河計画はどうやら根幹道路、今で言うと都市計画道路も一緒に整備する計画であったのではないかと思われます。従来はただ運河だけの計画だったのでしょうが、内務省の行政指導で、運河計画を立案する際に必ずその両側に街路を作ることになった、街路を整備しなさいという一つの基準がございまして、それを受けて計画され、道路網計画もあったと思われます。

 そういうことで、たった1枚の貿易新報の小見出しだけなのですが、一つの手掛かりを得ました。

 そういたしますと、河港水門と運河計画とは本当に関連性はあるのか、本当にリンケージしているのか、そういうような疑問を感じるところとなるわけです。しかしながら、「川崎市史」では、河港水門については320ページ、運河計画については469ページ、そして多摩川の改修工事については252ページ、というように分散して記載しており、これら三者を全く関連付けていないような印象があります。当時の『川崎市史』の編纂委員達は恐らくこういった問題について関連性は無い、ただ何となく関連があるかもしれないけれど市史としては恐らくそこまで研究はしていなかった、ということで、皆バラバラのページ記載になったということだと思います。

都市計画運河計画

 しかし誰しも、水門を造る以上どこかに運河があるのではないか、と当たり前のことなのですが思いつくわけで、そこでもう少し調べますとやはり例の横浜貿易新報の本文に、一号運河の計画位置として「起点は池上新田地先より、藤崎町を経て、久根崎を終点とする」という記載がありました。明らかに横浜側から川崎側に大師の河原を経由しないで船舶が航行出来るようにするために、この運河計画は非常にメリットがある、と睨んだのではないかと思われます。

 そういった意味で、最初の筋については、池上から久根崎に通ずるという形です。起点と終点という言い方、これは都市計画道路でも同じ言い方を使っております。例えば尻手黒川線と言うと、尻手を起点として終点を黒川とする。この都市計画道路の名称というのは、必ず起終点を明確にしなければならないわけで、「川崎都市計画道路 尻手黒川線」これがいわゆる都市計画道路の正式な名称です。

 これと同じように、運河計画も必ず起点と終点を明らかにしなければなりませんので、今言ったような形で池上と久根崎が起終点にあたるというわけです。

 ここまではすんなりと調査は運びました。この池上新田には横浜側からいろいろな船が入港し、いろんな原材料が入ってきます。川崎では当時さまざまな工場が多摩川沿いに立地しておりましたが、わざわざ大師河原を通って多摩川に入っていったのですが、大師河原はご存知のように遠浅で非常に座礁しやすい場所で、どうしても運河が欲しいなということがありました。

金森誠之と味の素

 横浜に一番近い池上辺りから開鑿をして、多摩川に貫けば、ということを誰しも考えたと思います。その結果、終点が久根崎だったわけです。それでは久根崎って一体、今のどのあたりの地名かな、と調べますと、何の事はない、これが味の素川崎工場がある所です。

 味の素という名前が急に浮上しました。金森さん・河港水門そして運河計画さらに味の素の三つ巴四つ巴なんですが、これの関連性をもう少し調べてみることにしました。味の素にも足を運びました。味の素には食文化資料室というのが京橋にございます。そこには食に関することとか、当然社史を作るためにいろいろなことを調べておりますが、昭和26年に「味の素沿革史」というのを出しておられました。そこに何と次のような文章がありました。「堤防の一部を運河口とする為には、どうしても堅固な水門を造る必要があったから多摩川改修事務所長であった金森誠之工学博士は水門建設費用として当社に10万円の寄附を勧誘された」というのを見つけました。これはやった!という感じがしました。これで金森氏がやはり触媒役となっていくつかの事業のコネクターとして動いたというのがわかりました。

 さらにこの沿革史を読みますと、「当時の社長先代鈴木三郎助は将来運河の重要性を見越して、大正15年の7月金森博士から勧められるままにその寄附に応じた」ということです。大正15年7月、この年月日すでにご案内の通りです。河港水門が出来る4ヶ月前です。ということで、多分これは間違いないであろうと思います。味の素の鈴木社長と金森所長の利害が一致したのだと思います。すなわち

 かねてから味の素は、原材料や燃料輸送のための自家用専用河港の建設を計画していた。 
 かねてから金森は、多摩川の河川敷改修工事によって失われてしまった六郷橋の荷揚場の代替地を
探していた。これによって、大正15年11月の河港水門着工にリンクしているということがわかったわけです。

 したがって今日は、河港水門とその水の都云々という主題の話だったのですが、大正の終わりから昭和にかけて一人の内務省の官僚が、川崎というフィールドを舞台にしまして、こういう大きな事業をやったということをご紹介させていただきました。この詳しい話につきましては、本日持参しました私の小論をお読み頂きたいと思っています。お時間がございませんので、まとめの方に参りたいと思います。

5 つのエピソード

 河港水門にまつわるエピソードを5項目書いております。教育委員会のホームページにも書かれていますように、河港水門の、ご存知かと思うのですが、水門の頭頂部に“こぶ”みたいなものが2つ付いています。あれを見ますと、実は多摩川の下流地域で育成されていた梨とか、葡萄とかを盛った花篭をモチーフにして造りあげてあります。最初からあの水門には似合わない。どうしてこういった物を造ったのか。金森所長という人はいろいろなアイディアマンであったようですが、こういう彫刻まで手掛けるとは思えない、ということで、それも調べました。

 実は建築家、久留(ひさどめあるいは、くる、この字の読み方も今はっきりとしておりません)という方がおりました。頭頂部のデザインにかかわりがあったということはわかっています。これは金森さんの手記に、「建築家の久留君に頼んで造ってもらった」という旨の記載を見つけました。何回かの調査によって初めて出てきた人物であります。金森さんという設計者はわかったのですが、頭頂部のデザイナーも何度かの調査の結果でわかったわけです。ただ姓名の名が今のところわかっておりません。いろんな方が登場しています。かなりの調査もしました。残念ながら特定出来る人物には今の段階で行き当たりません。しかしながら、この久留という方が、頭頂部のデザインをした、というのがわかった事も今回の調査の一つの成果であったと思います。

 それと竣工式ですが、川崎弘子や田中絹代などの松竹蒲田撮影所のスターが勢ぞろいしていたようです。実は金森所長は当時では珍しい16ミリカメラを持っていまして、洋行などもしておられます。当時の役人としましては非常に珍しい、なかなかのダンディーというか、モボ・モガの時代を代表するような方だったらしく、ダンスの本までお書きになっている方です。そういう関係かどうかはわからないのですが、実は松竹の蒲田撮影所、その跡地は、立派なビルが建っていますが、そういう俳優さん達とも交流があったようです。川崎弘子、ご存知のように大女優さんの一人ですが、川崎大師の近くに生まれたということで、この名付け親が実はこの金森所長です。弘法大師の弘を採ったということらしくて、この川崎弘子を見出したのが実は金森所長なのです。土木技術者でありながらこういうことまでやるというのは非常に破天荒な方なのですが、非常に魅力のある方ではなかったかと思います。これも調査した結果でわかりました。川崎弘子については、銀座にあります松竹にも出向し、川崎弘子のいろいろな資料も頂きました。でも、川崎弘子という名前は誰が付けたのかというのはわかりませんでした。しかしながら、金森所長が名付け親だというのがわかりました。

 3番目が、「酬むくひられぬ人」という映画のシナリオを作って多摩川を撮影場所として映画も作っています。当然主人公は川崎弘子です。これの一部が映像が残っております。

 そしてもう一つ話しておかなければならないのは、運河というのは当然土を浚渫して宅地にするとか工場にする、とかいう作業をします。その時に使った言葉が「地上げ」という言葉です。地上げというのはご存知のように、バブル時期にはやった言葉ですが、本来は地上げというのは浚渫をして、地均ならしをして、宅地とか工場を造るための作業をいうのです。金森所長はだいぶ使っております。

 さて河港水門の話と、都市計画運河の話、そして金森という人間が絡んでいるということを簡単にお話したのですが、私の小論である『都市の装置 川崎河港水門』に図面がありますが、先程お話しましたように、久根崎の味の素から川崎河港水門【頭頂部】池上。いま一つが、京町から夜光町へ向っていたもの。そしてもう一つが大師河原の方から池上新町に向かい、繋がっているもの。この3筋が計画としてあったということです。この両側に先程からお話した街路計画がリンクし、寄り添うように計画されたということです。

 ご存知のように今現在、全く見る影もなく、河港水門から220m位は開鑿した気配が残っております。が、今現在はわずか80m位しか残っておりませんし、埋め立てられてしまい、今は児童公園になっております。

 ということで、幻の大運河計画になってしまった理由というのは戦争、あるいは金森所長の言葉に言わせると、役所の担当者が代わる度に仕事がしづらくなったようです。市役所の職員が担当者が代わる度にしづらくなったと金森先生が手記に書いておられますので、これは非常に耳の痛い話であります。本来行政の連続性という言葉がありますように、これだけの大事業というのは担当が代わったので止めましょう、という話にはならないとは思うのですが。

 いずれにしましてもいろいろな要因でもって運河計画が挫折をし、結局それが幻の大運河計画になったというわけです。

まとめ

 先程もお話しましたように、建築家という言葉があるのに土木家という言葉が無い。土木屋というとすぐに屋号の屋になっているのですが、土木の家という、これだけの方がやっているとなるとやっぱり橋を造っている方、道路造っている方、あるいは公園造っている方、あるいはこういった運河を造っている方、やはり誰かが仕掛けているわけですので、こういう方達にもスポットライトを浴びさせるのが、今、私達の一つの責務ではなかろうか、と思っております。

 産業遺産という言葉を冒頭ご説明し、今どういう形になったかということでお話をしたわけですが、その背後には、それを造った人、すなわち土木の従事者がいるわけですので、こうしたことにもう少し光を当ててもいいのではないかなという気がします。

 ご静聴ありがとうございました。