2001年1 月17日(木)

 

三輪 修三(みわ しゅうぞう)

1939年 北海道釧路市生まれ。國學院大學文学部史学科卒業。塩釜神社博物館学芸員、川崎市教育委員会・川崎市民ミュージアム学芸員、川崎市立日本民家園長を経て、現在、川崎市立日本民家園嘱託、東京都立大学講師。『東海道川崎宿』(八雲書房)『多摩川−境界の風景−』(有隣堂)『川崎−歴史と文化−』(多摩川新聞社)『東海道川崎宿とその周辺』(文献出版)ほか。

昨年が徳川幕府によって東海道が制定されて400年という記念の年でございました。残念ながら川崎宿はその時にはまだ成立しておりませんで、23年程後になって仲間入りしたという宿場町でございます。1601年という年に徳川家康が宿駅を定めました。これは制定400年ということで耳にする年譜であるわけですが、では具体的にどういうことであったのか、駅制を定めたというのはどういうことであったのかということを、冒頭にちょっと難しい話ではありますがお話させて頂きたいと思います。

当時のことでございますから、武士が政治的、或いは軍事的な意図でかなり遠距離まで集団で移動するということがおこります。そうしますと当然、途中である間隔をおいて宿泊が出来る場所が必要になります。或いは武士団はまとまって移動しますので、たくさんの荷物を持っておりまして、多数の馬が必要になり、大勢の人足なども必要となります。そういう場所がある間隔の中で適宜提供される、そういう仕組みが必要であるということになった訳です。ですから1601年に駅制が定められたということは、地域にとってみれば必然として、全53の宿場町が日本橋から京の三条大橋の間に成立していったということになるわけです。その宿場町に定められた場所といいますのは、当然これは武士が移動してまいりますと、その武士の為に宿を提供し、馬を提供し、人足を提供します。この3つが大きな仕事、任務になったということです。

その宿駅が用意している馬と人足、天馬人足といいますが、これは武士達が政治的な意図で、所謂、公務で旅をする時には、自由に無料で使えるという仕組みになっておりました。ですからその仕組みが一旦成立しますと、武士階級が旅をするということが非常に合理的に、有意義に、円滑に、滞り無く出来るというシステムが完成したという風に言えます。

ところが江戸初期の段階では一般庶民が旅をするということはほとんどなかったと思いますが、元禄期以降、庶民の旅も段々機会が増えてまいりました。一般庶民が旅をする時には、その宿駅の旅篭を利用する事は出来ます。しかし天馬人足を仮に利用しようとすると、武士は無料でこれを使えるわけですが、庶民の我々は有料になってしまいます。要するに宿駅制度というのは、幕府の為、或いは支配者であるお侍さんの為に具合良く出来ておりまして、庶民の旅の円滑さを意図した物ではなかった、と言えると思います。その辺りは現在の民主主義の時代とは大きく違うところである、ということになろうかと思います。

川崎宿ですが、宿駅制定後23年経ちまして仲間入りをしました。しかし残念ながら、今、その東海道の川崎宿の宿場町であった所を歩きましてもほとんどそのイメージが残る場所はありません。関東大震災での被害が相当であっただろうと思いますし、太平洋戦争における空襲で壊滅的に破壊され、焦土と化してしまいました。その後復興したわけですが、昔の佇まいというものはもう全く姿を消してしまいました。歩いていても、ここが昔の宿場町だったということにはほとんど気が付かない、という風景でございます。

本題に入る前に、一体どの範囲が旧の宿場町なのかというのをちょっと皆様方にお話し、イメージを掴んで頂きたいと思います。六郷の渡しを渡りまして多摩川の右岸に到着致します。丘へ上がって旧道に入るわけですが、まもなく深瀬小児科医院を思い出されるかと思います。それからさらに先へ進みますと、東照がございます。読売新聞の川崎支局がございます。向い側には宗三寺があり、そのすぐ先に砂子の里美術館という浮世絵の美術館が出来ました。更に先へ行きますと、大きな交差点、市役所通りと直角に交わる交差点があります。これを渡りますと、川崎信用金庫の本店があります。更に行きますと、アサヒ印刷とはちょっと離れるのですがもう少し先へ行って頂くというと、馬嶋病院がございます。この馬嶋病院の所辺りまでが宿場町であったと考えられております。ですから六郷の渡しを渡って旧道に入りまして、そして現在の商店街を散策しながら西へ向って歩いて頂くと馬嶋病院の辺りまでが昔の宿場町となります。そこからは所謂、八丁畷の畷道ということになるわけですが、もちろん現在は住宅がびっしり並んで建っています。

その宿制制定後23年遅れて川崎宿が起立したわけですが、ともかくこの川崎の宿場町のある場所というのは湿地帯でした。多摩川と鶴見川の氾濫原で、水捌けがよくない、排水性があまりよくない場所でした。ですから幕府としては33どういう形で宿場町を作ろうかと、色々頭を痛めたようですが、結論としては低湿地帯の中でも、とにかく多少でも冠水の被害の少ない所を選ばなければ集落が維持されないということで、微高地を選んだわけです。僅かでも高いところに宿場町を設定しようとこういうことです。その微高地というのは何かと言いますと、遠い昔の、古い時代の海岸線です。恐らく縄文時代、或いはそれ以前のことかもしれません。はっきりした事は分からないのですが、昔は海岸線がずっと奥の方に入っており、その海岸線が自然に作った自然堤防というものがありました。そしてその自然堤防の上に宿場町を設定しました。

太平洋戦争で焦土と化した川崎ですが、出征兵士が帰って参りました。川崎の駅のプラットホームに立ちましても、周りは完全に焼け野原です。前方を見ますと、辛うじて市庁舎が、これは鉄筋コンクリートでしたから焼け残っていて、それから一般住宅はもうほとんど瓦礫の状態ですが、当時のことですからまだ蔵が点々と残っている。そういう写真を見たことがございます。そのプラットホームに立ちました兵士が前の方を見ますというと、一段高くなって土手の様に見える景観を見たそうでございます。それが実は古い時代の微高地です。辛うじて高くなっている所です。そこが宿場町に選ばれた、という事でございました。現在も川崎信用金庫の本店の前に立ちまして市役所の方を見ますというと、道が少し下がって下り坂になっております。それから振り返ってJRの川崎駅の方を見ますというと、同じ様にやはり少し低くなって下り坂になっています。歩いていては気が付かない、ほとんど足に負担になるようなスロープではありませんので、歩いていては気が付かないのですが、川崎信用金庫の前に立ち止まって前後振り返って頂きますと、なるほど少し高くなっているんだなと、分ります。それは昔の宿駅設定の時に、自然堤防上の微高地を選んで設定したことによると、考えてよろしいという風に思います。

そういう事で今の川崎には全く昔の面影が無く、古い資料も散逸してしまいました。川崎では歴史的な遺産は表に建つ様な形ではほとんど失われてしまいましたけれども、しかい幸いな事にと申しましょうか、この宿場町が偉大な人物を2人も生んでいます。一人は先程、飯塚先生から御紹介がありました田中休愚でございますが、もう一人近代の歌謡史に名前を残した佐藤惣之助であります。もっともっと我々はこの2人をよく熟知し、検証し、その川崎区全体の街づくりの中でこの両人の位置付けを考え、地域興しの目玉にしていくべきではないか、と思ったりしています。

昔の旅ということで、川崎の宿駅の事をお話させていただきますが、昔の人はとにかくよく歩きました。平坦路ですと九里は歩いたという風に言われております。36 です。今我々が旅をする時は旅行代理店へ行きまして新幹線の切符ですとか、ホテルの予約をしてしまいます。安心して旅をする、という事なわけですが、昔の人ももちろん同じ様に朝早く、我々以上に朝早く旅の用意を整えて、一番鳥が鳴く前にもう家を出ました。そのように朝早く出立した旅人にとりましては、品川宿は午前中、ほとんど朝のうちに通過しただろうと思います。川崎迄やってきますというと丁度、お昼頃になります。ですから川崎迄やってきた旅人は六郷の渡しから丘へ上がりますと、宿場町の入口で、万年屋ですとか、会津屋ですとか、新田屋ですとか、大きな茶屋が店舗を構えているのを目にします。そこで昼食をとるという旅人が多かったかという風に思われます。また、お大師さんへ行かれる参詣者もこの東海道川崎宿を利用するわけですが、同じ様にとにかく一旦、川崎宿へ入ります。宿場の入口には「ここからが宿場町ですよ」という事がはっきり分かるように石垣がございました。道の両側に小規模ですが石積みがありまして、夜は矢来でそこを閉じるようにもなっているわけです。この石垣は通常、土居とか、見付とか、棒鼻というふうに言いますが、ともかくその棒鼻から宿場町に入り、入りますというとすぐに万年屋がありました。万年屋の建物も丁度、大師道との分かれ道にも位置しておったようであります。それでそこには大きな道標が、寛文3年という江戸時代の非常に早い時期ですが、石で作られた道標、要するにお大師さんへ行く方はこちらですよ、というその方向を指示した大きな道標が残っておりました。川崎大師へ参詣される方は一旦、川崎宿の土居から中へ入って、万年屋の角の所で道標に導かれながら左折して多摩川の河口の方向へ向って行った、と言えると思います。最もお大師さんは大変大きな伽藍でございますから、六郷の渡しの舟に乗り、河口の方を見ますと、大きな甍が見えていたに違いないと思います。今はコロンビアの大きなネオンが見えますが、昔は先の方にお大師様の大きな伽藍が遠望出来たのだろうと思います。

宿場町の中へ入ってまいりますと、先程ちょっとお話しました深瀬小児科医院、あの場所に本陣がございました。田中本陣と申しました。或いは兵庫本陣と申しました。ここのいわば出身が田中休愚さんであります。大変硬い人物で、田中休愚の著わされた【民間省要】という本がございます。これは読むのが難儀で大変難しい本ではありますが、今もって中学や高校の日本史、或いは社会科の教科書の中に登場し、川崎にとってはかけがえの無い重要な人物がこの田中本陣から誕生した、ということになります。それからさらに先へ進みますというと、問屋場がありました。私達は宿場町といいますと、どうも旅篭がいっぱい並んでいたり、或いは茶屋があって、本陣があってというイメージを持っていますが、この本陣とか、茶屋とか、旅篭屋とか、全体トータルで管理、管轄するのが問屋場です。宿場町ですから、今で言えば駅の機構と同じ事になります。ですから当然、駅長さんがおられる、ステーションマスターがおられる、そしてその下にたくさんの職員が働いている、そういう役所が必要だったわけでして、それを問屋場という風に言います。ですから問屋場は宿場町の大体真ん中に位置しており、実は宿場町を考える時には、問屋場というのはある意味本陣以上に重要な、組織上の要になっていたものである、と考えます。では、その場所はどこかと言いますと、ついこの間迄川崎保健所があった所です。戦前のこみやデパート、戦後は川崎保健所があった場所でした。現在は近畿ツーリストの川崎支店になっています。あの場所であったと推定されております。ですからあの辺りが東海道川崎宿にとっての一番の重要な、要の場所でした。道を挟んで向い側には高札場が作られました。幕府の御触れですとか、道中奉行所からの様々な伝達事項が問屋場を経てむかいの高札場に掲示されました。当然、高札場というのは一番のメインストリートでなければならないということになりますから、そういう意味でもあの辺りが宿場町の一番の重要な人通りの多い繁華な場所であったという風に考えられます。

それからちょっと戻りますが、東照のある辺りにどうも助郷会所があったようであります。宿場町と言いますのは先程申し上げました様に、武士が通る時に馬を提供しなければならず、しかも無償で提供するということでしたし、しかもいつやってくるか判らない武士達に、いつでも提供出来る様な体制を整える、そういう義務を負っていました。大変な負担だったろうと思われますが、実はそれが宿駅の大きな仕事であったわけでありまして、馬を係留しておく場所が当然必要だったわけです。やってきた武士にすぐ馬を提供出来る体制ですから、通りに面した所で、問屋場から出来るだけ至近な場所に馬と助郷でやってくる人足達がたむろする、そういう場所が用意されていたとこういうことです。

それから更に砂子通りがありまして、その先に小土呂町となりますが、実は宿場町は1つの部落、1つの村ではなくて、川崎の場合は4つの村の共同体と言いましょうか、4つの村から成り立っていました。多摩川の右岸に久根崎が35ありまして、そして新宿町があり、砂子町があり小土呂町があるとこういう形です。4つの村がその微高地の方に、幕府の指示によって強制的に通りに面した所に農家を移住しましてそれで宿場町を構成したという事でございました。

この一番はずれのもう鶴見川に近い小土呂町でございますが、ここに近藤源之門さんという方が住んでおりました。仕事は何をなさっていたのか分からないのですが、ともかくある時小土呂町に住んでおりました近藤源之門さんの奥さんに何か願い事がおきまして、それで大山へお参りへ行ったわけです。当時大山の阿夫利神社へお参りする場合、特に何か心願があってお願いに行くという場合には、刀を持って行きました。もちろん真剣ではなくて木刀です。木で作られたミニチュアの刀といいましょうかそういうものでございますが、奉納石尊大権現と、大山石尊大権現と書き、願い事を書いて自分の名前を書いて奉納してくるという習慣があったわけです。それでその近藤源之門の奥さんはご主人にお願いして、その木刀を作りまして、それを持って大山阿夫利神社へ参詣して、拝殿にそれを奉納しましたが、拝殿にはたくさん木刀が奉納されていますが、そのうちの一振りを持って帰るというのが当時の習慣でした。持って帰った木刀は自分の屋敷の中、或いは神棚に安置しました。そうしますと家内安全のお守りになるという風に考えられていたわけです。それから若干の日数が経ちまして、今度は信州の千曲川添いに佐々木さんというお宅がございました。その佐々木さんのご当主が何か願い事をお持ちになられまして、はるばる信州からこの相州の阿夫利神社へやはり参詣にやって参られました。もちろん祈願の木刀を持っての旅でございました。そして無事に拝殿で願い事を神様に祈願して木刀を奉納し、別の木刀を持って帰るということで手にした木刀がございます。するとその持ち帰られた木刀が実はその暫く前に川崎の近藤源之門さんの奥さんが奉納した木刀だったということがございました。当然その木刀はその佐々木さんに背負われて信州へと旅立ったとこういうわけでございます。

時代が流れまして、昭和48年のことでございます。川崎で他にないユニークな野外博物館が出来ました。日本民家園と申します。これを作られたのは、古江亮仁先生でございます。昨年の10月25日のこちらの例会に古江先生が来訪され卓話をされたと今日伺いましたが、その昭和48年に、色々な建築の先生方から、長野県には非常に優れた民家があるし、日本の住宅の歴史上でこれは貴重だから何とか保存の手を打ちたい、ということを古江先生が聞きまして、古い名主さんのお宅で豪農であった信州佐々木家の住宅を民家園で頂けないものかということになり、長野へ参りまして、無事に話がまとまりました。で、その佐々木家住宅を民家園の方に移築する事になったわけです。古江先生と工事関係者が現地へ行きまして、解体が始まりました。高級な名主の家でございましたので、立派な座敷がありました。その奥座敷、座敷周りにぐるっと長押が回っておりますが、その長押から解体を始めました。長押の中にちょっと小さな懐がございます。よく小銭が入っていたりするわけですが、そこからパラパラと落ちたものがありました。それがその木刀だったわけです。昔、佐々木家の主が信州から大山へ行って、大山の阿夫利神社の拝殿から持ち帰った木刀が佐々木家の座敷の長押の中に保存されており、それが落ちてきたものですから、工事の方が「古江先生、何か落ちてきました。木の刀の様です。文字が書いてある。」とこういう事で、それを先生が見ましたらびっくりしたわけです。何でびっくりしたか、それは当然そうです。『武州川崎宿小土呂町近藤源之門内』とこう書いてあったわけです。年号は宝歴4年の7月でした。西暦で言いますと、1754年という年でございますが、その年に小土呂町の近藤源之門さんの奥さんが大山に奉納した。それが長野の佐々木家の家内安全を祈願して、佐々木家の座敷で安置されて、そして昭和48年になって、解体によってそれが再び川崎に戻ってくることになったと、いう話です。それで古江先生はびっくりしまして、これは不思議な縁があるものだと。川崎から出て大山へ行き、大山から信州へ行ってそして今、縁があって再び川崎へ木刀と佐々木家の建物を一緒に頂くことになった、と。永井荷風に『墨東綺譚』という艶っぽい有名な小説がありますが、これはそれにも劣らない非常にめでたい奇縁によって結ばれて、再び川崎へ戻って来ることになった非常にすばらしい『木刀綺譚』であると文字をパロディにしまして非常に自慢になさっておられましたが、そういうエピソードがあります。

実は今日、古江先生が昨年の12月に亡くなられて、そして最後の卓話がこちらで行われたという話をお聞きしたものですから、急遽ちょっとこの話を、川崎宿からはちょっと離れるというイメージもあろうかと思いましたが、付け加えさせていただきました。最後になりますが、その久根崎の一番はずれに行きますと、芭蕉の句碑がございました。先程の馬嶋病院の土肥がある所、石垣がある所です。その辺りに芭蕉の句碑があった筈です。現在は京急の八丁畷の駅前の方に移築されておりますが、これは元々はどうも馬嶋病院の、要するに宿場町のはずれにあったようです。元禄7年の5月に深川の庵を発って、芭蕉はいよいよ自分の郷里伊賀へ帰る、江戸との最後の別れの旅だったわけです。同道したお弟子さん達も川崎宿で、「ここでお別れしましょう。」という事で、弟子達が先生に最後の句を作られて、それをそれぞれ献呈されました。俳聖芭蕉は川崎宿のはずれでその場の風景を詠み込みながら江戸との別れを惜しんで、『麦の穂を たよりにつかむ 別れかな』という句を残されたわけです。芭蕉はその年の秋に亡くなります。50歳でございました。ですからこれは大変記念的な、川崎宿にとっては記念的な碑であると思います。文化的には文化財として大変貴重な碑であるという風に思われます。川崎市内には芭蕉の句碑が2つ3つあります。お大師さんの境内にもございますし、野川の影向寺というお寺の境内にもございますが、他の句碑は実は芭蕉がその地を訪れて詠んだものではないのです。お大師さんの句といいますのは、高野山へ芭蕉が行かれた時に詠んだものでありますし、野川の影向寺の桜を詠った芭蕉の句は、これは小金井の桜を詠ったものでございまして、そういう意味では川崎にある芭蕉の句碑の中で唯一実際に芭蕉がその場を訪れ、そして長の別れになったその時の気持ちを素直に表現した名句であろうかと思います。

最近、その田中休愚、或いは佐藤惣之助、俳聖芭蕉と謂れのある川崎宿を何とか復興しようじゃないか、それを町興しの核にしようじゃないか、と川崎区民の方も大変盛り上がっているようです。砂子の里美術館も出来ましたし、出来れば川崎の古い資料を集めた楽しい川崎宿、或いは東海道の歴史を楽しめる資料館のようなものを是非作りたい、或いは芭蕉の句碑を整備した芭蕉公園のようなものを作りたい、とそんな事を考えております。またその節は是非皆様方のお力添えをいただきたいという風に考えております。

話が十分中身が深まらずに時間がきて終わってしまいましたが、時間になりましたのでこれで失礼させていただきます。ご静聴いただきましてありがとうございました。