池田幸豊の人物像を探る
2001年12月13日(木)

祖父江一郎(そふえ いちろう)
昭和20年、群馬県多野郡万場町に生まれる。横浜市立櫻丘高校、神奈川大学第二経済学部卒。横浜市役所を振り出しに通信社記者、フリーライターなどを経て今日に至る。小林伸男の筆名で映画脚本『一ノ倉沢』で第六回城戸賞受賞、他に『五百羅漢物語』(第二回サンリオ映画脚本賞佳作第一位)『砂漠を旅して』(昭和五十八年度ATG映画脚本賞奨励賞)、ノンフィクション作品としては『三吉橋界隈のこと』(疾風怒濤社)『蒲鉾太平記』(神奈川新聞社)『都市膨張』(横浜市)『いとしき老後のために』(神奈川図書)などがある。

山本周五郎は、賄賂政治家として知られている田沼意次を、その作品「栄花物語」の中で本当の意味で改革政治をおこなった人物として正当に評価しました。

資料「池上幸豊、義田を開発し、殖産興業につとめる」を配布しました。池上幸豊という日本史上超一級といっていい人物を、従来と違った捉え方でまとめてあります。

本日のテーマの池上幸豊とその田沼意次との関係ですが、老中の権限を持つ前、御側そば衆だった田沼意次が、大師河原村の一名主にすぎなかった池上幸豊を見出したのですが、正当に評価されることの少ない政治家と歴史に埋もれている郷土の大人物との人間関係を、史料にない部分を私なりに光を当てて描きたいと思ったので23す。

私は、疎開先の群馬県に生まれましたが、川崎に育ち成人しました。すでにお話があったようですが、「小泉次大夫」(11月15日の卓話)は、江戸時代開発が後れていた関東にあって、多摩川の治水に尽くし、耕作地開発に大きく貢献した人物です。またいずれお話を聞かれる予定の「田中休愚」については、享保の改革のシナリオを書いたのは休愚ではないかと思えるほどの人物です。池上幸豊は前述の二人の人物に勝るとも劣らない川崎の生んだ大功労者といえます。

将軍吉宗の時代、幕府は砂糖と生糸の購入に毎年多大な出費を強いられ財政再建(享保の改革)が急務でした。砂糖の国産化を目指して甘蔗の栽培を奨励していました。

一方池上幸豊は、新田開発が禁じられていたこの時代に困窮者救済のため「十分の一給与」を義田とする海中開発(埋め立て)の願書を関東郡代に提出し、6年間たなざらしされた後着工が認められました(池上新田)。

池上家は池上本門寺の檀家筆頭を代々務めるほどの資産家でした。新田を開発しながら自分の利益を得ることなく、利他の精神で殖産興業に生涯をかけた幸豊の実績を見るとき、池上家の家訓に「世のために尽くす」があったのではないかと想像します。

西洋でも言われるとおり“Lofty Ambition”(高尚なこころざし)つまり世の中のために大志をいだく人が洋の東西を問わず尊敬されるべき人なのです。

吉宗死後将軍家重に重用された田沼意次は、幸豊に甘蔗栽培と精糖法の普及を命じ、幸豊も東奔西走してこれに応えました。砂糖の国産化を急ぐ意次と、甘蔗栽培を実際に行い効率の良平成13年12月13日(木)時代小説家 祖父江一郎い精糖法を学んでいた幸豊とは「大志」で一致したのでした。

田沼意次=賄賂政治と後世の歴史家の多くが非難します。政治には志やテクノロジーだけでなくお金が要ります。賄賂だろうが何だろうがお金を集めて、それで社会的基盤を残すことによって国民に還元しようとしたのが田沼意次だと思います。ところが松平定信らは意次を糾弾し、政権の座から下ろしますが、代わって行った寛政の改革という財政の立て直しは、当初の人気もつかの間失敗の泥にまみれてしまいます。

財政改革は後世に残らない。産業基盤をこそ残すべきなのです。今の小泉政治に欠けている考えかただと思います。

以下ご一読いただき、池上幸豊のようなすごい人が川崎にいたのだということをおわかりいただければ幸いです。

池上幸豊、義田を開発し、殖産興業につとめる

享保十四年(1729)、若干十二歳で亡父の後を継ぎ、大師河原村の名主となった第二十四代幸豊は、先祖の志を継ぎ、彼が若くして指事した成島錦江の『国益論』の精神を加味して「義田」の制度化を思い立った。

この「義田」とはどういうものかというと、凶作や水害などで困窮する農民を救済するために作付する田畑といい、ここから収穫される作物は不時の災害に遭った農民のために分配する24というもの。すでに自分の持田の一部を「義田」として困窮者に提供していた幸豊は、延享三年(1746)、幕府に提出した開発願書の中でこういっている。「新田は幕府の力を借りず、すべて自分の費用で開発し、完成後はそれぞれの村に返す。これは御公儀のためにも、村々のためにもなることだから、開発した新田の十分の一は見棄地として当方に与えてもらいたい」

幸豊は、このように「十分の一給与」というかたちで義田を確保しようとしたのである。もちろん、「十分の一給与」地は、自分のために使うものではないことを幸豊は明言している。

このような開発願書は前例のないことだったから、幕府は対応に手間取り、六年後の宝暦二年(1752)になって、条件付きでようやく許可を与えた。

つまり、幸豊が申請したのは百町歩の開発であったが、十五町歩に限り試験的に開発することを認め、「十分の一給与」の件については保留するというのである。

幸豊はこれを受けて宝暦三年に着工、完成をめざしたが、三年を経た宝暦六年、大波を受けてこれまでに築いた汐除堤が全壊、同七年には六郷川の大洪水で陸側の堤が流失するという被害に悩まされた。完工したのはさらに二年を経た宝暦九年(1759)六月のことだった。総工費は七百六十七両余。

十四町五反歩の新田開発費用として、当時の常識ではかなり少ないものであった。これは池上家が伝承してきた海中新田開発の技術がいかに卓越していたかを物語るものである。

幕府はこれを評価し、あらためて「十分の一給与」を例外的に認め、幸豊を新田世話役に任命して幕府支配地の開発見立を行わせるようになった。

池上新田を開発した幸豊は、新田開発地の見立と並行して砂糖の国産化にも取組んだ。幸豊が「殖産興業の父」と称されるのは、砂糖の国産化に果たした大きな役割のほかに、塩田の経営、海苔養殖、果樹栽培、養魚、筵の製造、芒硝(硫酸ナトリム)の製造、朝鮮人参の栽培など多角的に取組んだからであった。

なかでも、幸豊が最も力を入れたのが砂糖の国産化であった。

宝暦十一年(1761)五月三日、幸豊は江戸に住む田村元雄(げんゆう)のもとをたずねた。「おう、よいところにきた」田村は待っていたといわんばかりに幸豊を迎えた。

田村は本草家としても医師としても、その名をよく知られていた。発明家として後世にまで知られた平賀源内は、この田村を師の一人として学んだのである。

田村は喜色満面にしていった。「長い間の苦心が実り、自分なりに製糖法を工夫し、ようやく砂糖をつくることができた。御勘定奉行一色安芸守さまにご報告申しあげたところ、事業化して一般に売り広めるようにと内々にお達しをいただいた。だが、何分にも私は医者だでの。そこまではやれぬ。そこであんたの名を出しておいた。あとはあんたがやってくれ」

池上家は、幸定の代から細々とながら砂糖の原料である甘蔗の栽培を手がけてきた。幸豊もまだ漠然とではあるが関心を抱いていた。そのためにはまず製糖法の実際を学ばなければと考え、田村のところに出入りするようになったのだ。「是非とも」

幸豊の心に再び情熱が点火した。

砂糖が唐の国から渡来したのは奈良時代のことであるという。以来、貴重な甘味源として珍重され、薩摩国を中心として甘蔗が栽培され始めたが、それを砂糖にする技術が未熟なため、自給するまでには至っていない。

元禄期を迎え、生活が華美でぜいたくになるに従い、外国からの輸入は一挙に増大した。外国から輸入される白砂糖は年間約二五〇斤、琉球、薩摩から買付けられる黒砂糖は約五〇〇斤、これを金額にして表すと前者だけでも約五万両25という巨費が年々外国へ流出していくことになる。

すなわち、砂糖を自給することができれば、毎年五万両の出費を節約できるばかりか、新たに産業を興し、広く民間をうるおわすことができる。

そこにいち早く着眼したのが吉宗だった。享保十二年、吉宗の指示により、松平大隅守継豊が薩摩国出身の家臣落合孫右衛門に命じて浜御殿内の薬園で甘蔗の栽培を始めさせた。

その一方では、御書物奉行深見新兵衛有隣が栽培法、製糖法の文献をあさり、長崎の唐商李大衡、游竜順に問い合わせて研究を進めた。それと平行して吹上御苑の薬園吏岡田丈助が製糖を実験した。

吉宗はそれでも満足せず御小姓磯野丹波守政武をして製糖法の研究に当たらせた。砂糖の国産化と自給は吉宗の悲願だったのである。

幸豊は勇躍して大師河原へ帰った。

同年十月二十六日、幕府から田村を経て甘蔗の株五十株、甘蔗の茎2千本が幸豊の手に渡った。続いて十一月三日には、浜御殿の残り二十五株、三百五十本が幸豊に下げ渡された。

ところが、この年は特に寒気が厳しく、また池上新田の土中から塩分が抜けきれていなかったこともあり、大半が腐ってしまった。

幸豊は顔色を変えたが、幸豊に大きな期待を寄せる幕府は、強いてそれを咎めず、新たに甘蔗二千本を下げ渡して奨励した。

田村の製糖法にも改良すべき点が多々あった。

その合間をぬうようにして幸豊は大坂へ行き、安治川通、木津川通の開発見立を行い、あくる明和元年には橘樹、都筑、多摩三郡を開発見立のため巡回した。

明和二年八月には大暴風雨が池上新田を襲い、決壊した汐除堤の修復に追われた。

文字通り席があたたまるひまもない多忙な日を送りながら、幸豊は甘蔗の栽培と製糖法の確立に取組んでいった。

その幸豊の前に河野三秀が現れた。

河野もまた医師であった。当時、今日でいう化学といえば医師、科学といえば天文家の領分だった。製糖はどちらかといえば化学の分野に属するから、必然、医師の活躍が目立ってくる。

河野の製糖法に注目した幸豊は、彼の唱える和製砂糖座の計画にも共鳴し、二人して協力を誓い合った。明和三年三月のことだ。河野の計画を幸豊は次のように具体化した。

幸豊が持ち分とする甘蔗三百株、神奈川宿忠兵衛の持ち分六百株、公儀の持ち分などでまず二千株を集め、関東の幕府直轄地で栽培する。これをもとに一万株に増やし、一株永三分で買戻して砂糖をつくる。これを十二年間繰返せば、甘蔗の株は最終的に十二億四百九十万八千株、茎数にして六十二億四百六十万本に達する。

甘蔗千本につき砂糖に二十斤の製造が可能と見て、一斤当り銀一匁五分が相場だから実に三十一万二千両余の売上げが可能になる。「これが実現すれば、御公儀の財政もうるおい、毎年五万両もの金銀が外国に流出するのが防げるだけでなく、農家の生活向上にも大きく寄与することになります」

国家的規模にふくれあがった幸豊の計画を聞き、河野は尻込みした。「ちょっと待ってもらいたい。あまりに規模が大き過ぎやしませんか。これがもしうまくいかなかったら大法螺吹といわれかねませんぞ。いや、それならまだよい。御公儀よりどのような26お咎めを受けるか、私は心配だ」「いやなに、御公儀がこの計画通り認めるものですか。必ず規模を縮小せよというに決っています。これぐらいの数字で出してちょうどよくなるんです」

幸豊はけろっとした顔で答えた。

幸豊の頭には、百町歩で出願した池上新田の開発計画が十五町歩に縮小され、義田の意義をほとんどなきに等しくされた無念の想いがあった。

幸豊は、この計画をそのまま公儀に提出した。

だが、幕府の反応は速やかだった。幕府は幸豊の計画を受け、直ちに稲毛、川崎、神奈川の三ヵ領に「甘蔗を栽培すべし」という布令を出した。計画書を出したのが三月なら布令が発せられたのも同年三月のことである。

一体、幕府の中で何が起きたのか。

あまりの幕府の反応の速さに、幸豊はかえって首をかしげた。

十一月には、日本橋蠣殻町の田沼家下屋敷に出頭し、製糖法の実際をお目にかけるよう命ぜられた。

なぜ田沼さまなのか。

これも不可解だった。田沼意次は遠江国相良城主一万五千石の小大名で、役職は御側衆である。まったくの御門違いの筋であった。

ともあれ、準備万端整えて幸豊は出かけた。田沼家用人井上官治の指示に従い、実験の仕度を済ませると、意次その人が幕閣要路の面々を案内して入ってきた。

実験は成功した。

意次は純白にきらめく白砂糖の入った器を要路の人々の間にまわした。指につまんで白砂糖を口にしたお偉方たちは、口々に感嘆の声を発した。最後に味見をした意次は、うんうんというように二度ほどうなずき、幸豊を見つめ莞爾とした。

それだけであった。意次はお偉方をうながし、そのまま何もいわずに部屋を出た。

用人の井上がすかさず幸豊の耳もとにささやいた。「殿は口かずの少ないお方でな。上首尾でござった」

成功はしたが、「なぜ田沼さまなのか」という疑問を新たにしながら、幸豊は大師河原村へ帰った。

幸豊は引き続き努力を重ね、明和五年(1768)春を迎えた。しかしながら、甘蔗の栽培は幸豊らの苦心にもかかわらず、歩留が悪くなかなか思うような結果が出なかった。

幸豊は、広く栽培適地を探し求め、栽培面積をふやしていくほかないと思った。そうするためには、ただ甘蔗の栽培だけを進めるだけでは駄目だ。製糖法をおのれだけのものとせず、広く伝法してこそはじめて人はその気になるだろう。それもただで教えたのではありがたみがわからない。教授料を取り、それを役所に預け、蓄えておけば、義田を開く原資となりうる。

幸豊はその案を持って公儀に願い出た。

その許可が早くも三月におりた。ただし、幸豊が申し出た金二両の教授料は金二分に引き下げられた。

伝法のための廻国に先立ち、武蔵、相模、上野、下野、安房、下総、上総、常陸、甲斐、伊豆、陸奥、出羽の各国に幕府から布令が出された。甘蔗の栽培法と製糖法の伝授を希望する者は申し出るようにという勧奨の布告である。

これもまた行き届いた対応であった。

幸豊の心の中で意次の存在は日ましに大きく、身近なものになっていった。

五月には、高松候のお声がかりで、家中の士に甘蔗の栽培法と製糖法を伝授した。そのあと、幸豊は高松候父子に目通りを許され、白銀を褒美として受けた。

高松候の件は意次とは関係なさそうだが、八月になって「幸豊一代に限り苗字帯刀を許す」という通達がきた。士分として扱うということである。民間人と士分とでは身分上格段の差がある。伝授する相手が武家の場合、学ぶときの態度、姿勢が違ってくる。伝法がやりやすくな27ることはいうまでもない。

これもあの御方のはからいなのだろうか。

その思いが確信に変わったのは、明和六年、意次の周旋により橘樹郡帷子町、仏向村の官地が幸豊に貸与されたときであった。もちろん、甘蔗栽培のための貸与である。

同時に、新開地見立の名目で東海道、五畿内の巡検を命ぜられた。

幕府の布告に対する各地の反応は今ひとつだ
った。伝法の依頼を待たず、とにかく自分の目で見て栽培適地を探し求めよ。幸豊には意次の声が聞こえるような気がした。

巡検を終えて帰った幸豊は、意次が側用人から老中格に出世したことを知った。老中格とは異例の昇進をおもんぱかってのもので、いずれ老中になるということは既定の事実であった。

明和九年一月十五日、正式に老中に就任した意次は、改革のため施策を次々に打ち出した。植付方から廻国願書をあらためて出せといってきたのはその直後のことである。幸豊は二月に入ってその願書を植付方に提出した。

なぜか今度は時間がかかった。幸豊に廻国の命が下ったのは、出願してから丸二年を経た安永三年二月である。この二年間は、おそらくは幸豊の伝法のための廻国の趣旨を徹底させるために要した時間だったのであろう。

出発に先立ち、以後は新田開発から身を引き、甘蔗の栽培普及と製糖法の伝授に専念してもらいたい、という意次の内意が幸豊に伝えられた。公儀の証文を得、馬一頭と人足二人を与えられ、二月二十七日、大師河原を旅立った幸豊は、一ヵ月かけて上総、下総、上野、下野の四ヵ国を伝法してまわり、三月二十七日に帰着した。

 

帰るとすぐ、幸豊は養子の金蔵幸理に池上新田の名主役を継がせ、自分は病気を理由に新田世話役をも辞職した。これが意次に対する幸豊の返事だった。

しかし、いかにせん金蔵はまだ七歳である。先妻恵津との間に子がなく、後妻のいくもまた子をもうけず、後継者として育てるため池上家に迎えたばかりの養子であった。

幸豊が後見するほかなかったが、これでは自分が身を引く意味がなくなるので、金蔵を後見するための養子を新たに迎えることになった。28これが太市郎最表である。安永五年のことだ。

天明六年四月六日、幸豊は二度目の廻国命令を受け、同月十三日、大師河原を出発した。こんどは京、大坂、東海道筋、中仙道筋が目的地であった。伝法先は七十七人の多きをかぞえるまでになっていた。

幸豊は六十九歳になっていたが、夢があった。意次の付託に応え、国益のためにつくす池上家代々の精神を世に広めるという使命感が、老いを忘れさせた。

不幸にして秀才金蔵幸理は十六歳で亡くなったが、代わりに伊沢家から迎えた幸通が片腕として働くようになっていた。もはや後顧の憂いはない。

だが、しかしながら、幸豊の夢は無残に打ち砕かれた。

天明六年八月二十六日、頼みとする意次が老中を罷免されてしまったのである。世評では賄賂政治を白河侯に指弾され失脚したというのがその理由であったが、その一方では意次の改革によって特権を奪われた御用商人が策謀し、白河侯をそそのかしたためという噂も聞かれた。

温厚な幸豊は、生涯初めて激しい憤りを覚えた。

失意の意次が亡くなったのは、天明八年六月二十四日のことである。このとき、幸豊は第三回目の廻国に出発していて、意次の死を知らなかった。駿河路を伝法してまわり、七月一日に帰ってきて初めて知ったのである。

幸豊の怒りに悲しみが加わった。砂糖座を設立して権利を独占しようと決意した。これは伝法廻国とは精神をまったく逆にする方向であったが、御用商人を締め出す手だてはこれしかなかった。幸豊なりの意次の弔合戦であった。

池上幸豊記念碑