小泉次太夫の人物像
2001年11月15日(木)

長島 保(ながしま たもつ)
地域史研究家
1934年 東京生まれ。大田区久が原に在住。
30年勤めた県立川崎高校(定時制)を定年退職。
現在市民アカデミーや市民館などの講師、歴史散歩サークルの指導に従事。
アミガサ事件の顕彰運動や多摩川エコミュージアム運動に携わる。
多摩川エコミュージアム推進委員会代表世話人。
市文化財団評議員、
川崎地域史研究会代表、
川崎区誌研究代表、
大田区郷土の会事務局長。
元川崎市史編纂専門委員。

今日は、小泉次大夫の人物像ということでお話しするのですが、人物像を語るほど研究を深めておりません。人物像というと、その人となりを全体的にとらえてお話しないとできないので、人物像といいつつ小泉次大夫が、何をしてきたかということにしぼって、お話をさせていただきたいと思います。
 小泉次大夫の名前はかつては「太」と書かれておりました。ただここ10年くらいの研究の過程で、次大夫が実際に出した文書などをみてみると、点がない(大)ということがわかり、それ以後最近は点をいれない(大)という字で書いております。

 (1)まず次大夫について大変びっくりするこ16とは、彼が多摩川両岸の四ヶ領用水を開削して、実際に工事を指揮、監督したその年代です。59歳で始めて、完成したときは73歳であったのです。まさに60代全部をかけて、それこそ老骨に鞭打って、とにかく正月を3、4日休んだだけで、両岸を行き来し、用水を掘っていきました。それこそ「熟年パワー」の代表のようなものではないかと思います。
四ヶ領用水とは一般ではあまり使われておらず、川崎では二ヶ領用水といわれてます。正式には稲毛・川崎二ヶ領用水です。ところが、対岸にも二ヶ領用水があります。世田谷・六郷二ヶ領用水です。最初のころ世田谷の方ではあまり水を使わなかったので、六郷用水と呼んでいます。おもしろいことに、世田谷の人たちは六郷用水とはいわず、次大夫堀といっています。

いずれにしても、川崎の二ヶ領領水、対岸の世田谷・大田を流れた二ヶ領用水をあわせて、四ヶ領用水。つまり、多摩川の両岸を同時に開削して、水田地帯を切り開いていったのです。このあたりをきちんとみなければいけないのではないかと思います。

この四ヶ領用水は、神奈川県内で一番古い用水です。もちろん多摩川から水を取っているのですが、年代を言うと、
1597年(慶長2) 測量開始…江戸時代以前…
ここから多摩川の開発が行われ、今年で開削着手404年目になります。

1599年(慶長4年) 着工
このあたりの時代を日本史の流れで言いますと、
1600年(慶長5) 関ヶ原の合戦
1603年(慶長8) 江戸幕府成立

 これら以前から四ヶ領用水の開削工事は始まっていたのです。

開削の状況を伝えている当時の資料は全く残っていません。後年、江戸時代にまとめた「新用水堀定之事」という長文の文書が残っております。この文書は大田区側の農村に写本が残っています(5〜6冊)。これをもとに色々と研究がなされています。「新用水堀定之事」は、開削を伝える根本資料となっております。川崎側には直接開削を伝える文書は残っていません。

(2)小泉次大夫に関して、「小泉家の先祖書」というものが、大田区に残されています。私はこの書とその他の資料を見て、「姓氏と家紋」という雑誌に、「小泉次大夫とその子孫」ということでまとめてみました。小泉家は次大夫を初代として、明治まで追いかけることができましたが、近代になって遺族もよくわからず、子孫は江戸時代の終わりであきらめねばなりませんでした。
 初代次大夫をたたえた記念碑が、日蓮宗妙遠寺にあります。泉田弐君の碑といい、泉は小泉、田は田中休愚、二人の顕彰碑になります。この碑面を見てみますと、まず碑の額は当時の内閣総理大臣、黒田清隆の筆です。漢文でいろいろなことが書いてあり、これを拓本にとりました。拓本を取る時に、はしごをかけようとしたら、やめなさい、崩れ落ちるかもしれないと言われました。よく見るとあちらこちらにひびがはいっています。なんでひびが入ったのか色々調べてみると、泉田弐君の碑は現在は宮前町にありますが、かつては川崎の駅付近、市役所前の妙遠寺にあり、戦時中、今のところに疎開しました。ところが墓地の方だけは疎開できず、そのまま残り、川崎大空襲をうけました。その時、火をかぶり、石にひびが入って、後に運ぶときに一部が崩れ落ちました。ですから今の碑の上の方が変な形をしております。そういう意味では、戦争の火をくぐってきた、戦争遺跡でもあります。この記念碑ができたのは、明治22年、大日本帝国憲法が出来た年です。当時、地元では小泉次大夫と田中休愚を顕彰しようという運動がおきていたようです。建碑のほか、巡検図創作や木造製作なども行われました。地元ではこの碑を水恩の碑と名づけて、顕彰してきました。
 つまり、多摩川の両岸は水があるけれど、非常に荒れていました。そこに水を通して、村づくりをしました。後の川崎が発展していく上で、用水を掘ったということが大変重要な意味をもちました。その意味で小泉次大夫は、川崎の地域を発展させていく上での大きな石づえをきずいた人物です。だから水恩の碑と名づけて、二人をたたえようという運動が起ったわけです。それが現在、二人の業績を伝える資料として私たちに教えてくれます。小泉次大夫巡検図同時に妙遠寺は、小泉次大夫夫妻のお墓があります。ここは次大夫が、隠居したところで、その元となった寺が小杉に妙泉寺としてあり(今は廃寺)、次大夫が陣屋をつくり、工事事務所とし、その陣屋の中に妙泉寺をたて、用水開削成就を祈祷しました。そして彼が隠居した後、川崎の砂子の方に移し、名前も妙遠寺に改めたのです。


(3)では小泉次大夫の出身ですが、駿河国富士郡小泉郷の出で植松家の長男として生まれました。植松家は鎌倉時代以来の「樋代官」つまり、用水関係の色々な仕事をしてきた家に生まれました。用水関係の仕事をするということは、用水土木事業の技術を持った集団を率いることです。長男だから家を継ぐべきところ、継ぐことなく故郷を後にしてしまいました。次大夫のおとうさん、おじいさんの代は今川氏の家臣で、滅亡後家康に臣従します。次大夫は武田攻略の合戦に参加し、手柄を上げ、家康にとりたてられました。天正10年の武田攻略戦で奮闘し、全身に7ヶ所の傷をおいました。とくに足に障害が生じました。その後、家康が関東に入国したので、家督を弟にゆずり、関東へ出てきました。そして多摩川流域の代官職に就任するのですが、「寛政重修諸家譜」では慶長6年に代官職になったと書いてあります。実際はもっとはやくなっているはずだと思います。とにかく代官職、用水奉行になって徳川家康から四ヶ領用水の開削を命ぜられました。次大夫は植松からなぜ小泉に変わったのでしょうか。家康はしばしば小杉御殿に来て、鷹狩をしました。その時、次大夫は接待役をつとめます。その時家康は、毎度次大夫のことを「小泉」と呼んだので、小泉と名前を変えたそうです。とにかく四ヶ領用水を完成させて、家康から知行地を拝領します。どこに領地をもらったかといいますと、荏原郡下袋村に300石、同郡麹谷村に300石余、現在の地域では、大田区の北粕谷から、西、東粕谷のあたりです。それに豊島郡蓮沼村に130石余、あわせて750石余。旗本ですね。用水完成の翌年にお役御免を願い出て隠居します。妙泉寺だった寺を、砂子に移して妙遠寺とあらため、そこを隠居所にしました。元和2年(1616年)には家康がなくなり、次大夫は剃髪し宗可と名前を改めました。元和9年12月8日85歳でなくなりました。ところで、元和9年は川崎宿が誕生した年です。川崎宿は東海道制定のときはまだ宿場になっておらず、おくれること22年で成立しました。東海道53次の中で後ろから数えて2番目です。それが元和9年で、次大夫がなくなった年と全く同じです。このようなことも何かの縁ではないでしょうか。ご静聴ありがとうございました。